蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

最近の140字小説

 近はなかなか140字小説を書けないでいる。

 なにも思い浮かばないのだ。

 現場に配属されて働きはじめてから作品投稿ペースがグンと落ちた。

 以前は2、3日にいっぺん投稿できていたのに、最近は1週間にいっぺん投稿できたらいいくらいになっている。そろそろ140字小説アカウントであるという文言を消した方がいいかもしれない。

 

 なにせ毎日に暇がない。

 仕事中はまったく考えられないし、通勤時間は本を読んでいるし、帰ったらブログを書き、長い小説を書いているため、140字で収まる物語を考えられる脳容量がないのだ。

 私の物語を作る脳みそは、コンピュータのように高速処理して同時並行で作れるようにできてはいない。あまり良いCPUを積んでいない。

 140字小説はなかなかコスパが悪くて、推敲にかなりの時間を要するし、疲れる。そこが楽しさでもあるのだけど、Twitterの文字数で作れるからって決して楽なわけじゃない。140字の中で起承転結をまとめ、伏線を張ったり、読者の目を誤魔化す工夫をしなければならない。短いというだけで、立派な小説なのだ。

 

 そんなわけで、ぽつぽつ書いていた140字小説のうち、多少人気のあったものをまとめておこうと思う。『』の中はタイトルです。

 

   『日曜日さんも夕方以降はかなり嫌われてる』

 ちなみにこの140字小説を書いた次の日の月曜日、台風のおかげで私は6時間遅刻することになる。

 

 次ッ!

 

 

   『実は聞いてますよ』

 

 次

   『反転する光景』

 

 次

   『二度と思い出せなくなるまで』

 

 次

   『泥棒だ!』

 

 

 蟻迷路のアカウントをはじめた頃は1日3~4編の140字小説を投稿していた。

 まずはフォロワーを獲得したいというのもあったけど、単に暇だったのだと思う。考える時間が多かった。

 よくやってたよなぁ。

 

 今回まとめた中でいちばん気に入ってるのは最後の『泥棒だ!』です。

 泥棒も侵入したときや部屋を荒らしているときはハラハラしてるんだろうなぁ。クズめ。

 

 もっと140字小説書きたいなぁ~~~~~。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会の思い出

 まるで私が舞踏会に参加したかのようなタイトルだけど、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』といえば、ルノワールの絵画である。

 

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 大学生の頃、この世界的に有名な絵画を独り占めしたことがある。

 

 それを見たのは乃木坂の国立新美術館でやっていた、印象派の展覧会でだった。大学2年生くらいだった私は友だちと二人、夕方のおそい時間に入館した。

 平日の夕方のおそい時間、人はまばらで、信じられないくらい空いていた。

 ほとんど貸し切り状態で、ちょっと走るくらいでは誰にも怒られそうもなかったし、ベンチで横になっても誰も気にしないだろう。絵に触れることもできたかもしれない。そのくらい空いていた。

 だからどの印象派絵画もじっくり見ることができたし、流れに従わず順路を戻ってもう一度見ることもできた。

 あれほど充実した美術的時間もそうないだろう。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』ははたして薄暗い空間に照らし出されて、私を前にして壁にかかっていた。私は絵の前に佇んでいた。

 思っていたよりも大きい絵だった。

 その画面から漂うにおいと音があった。

 ぼんやり見ていると私もその舞踏会の空間にいる一人の男のような気分になって、踊っている小娘や若い男を見ながら、ワインを飲んでいる良い男性のような心持になってくる。

 人物たちはルネサンスロココやロマネスクのように舞台的なポーズをとらない。あくまで、現実の生活の一部のハレの日の一場面を切り取ったような、自然な佇まい、自然な笑顔、やわらかな光。そうした私たちがごく当たり前に見ている景色こそが、なによりも美しいのだな、と思った。

 ばっちりポーズを決めている宗教画も格好良いけど、私は素直な美しさと描く人の目の中を覗けるような印象派の方が好きだ。

 「印象派」って名前もいい。鑑賞の肩に力が入らなくてよい。印象を追えばいいわけだから、余計な知識も必要なく、心の印象に残った絵画を楽しめばいいのだ。思ったように好きなだけ楽しめばいい。

 

 ルノワールの目には、世界がこうやって見えていたのだろうか。

 やわらかで、幸福感があって、光は光らしく、陰は陰らしく、女は美しい生き物で、男にはすこし陰が落ちて見えていたのだろうか。

 ルノワールは女の子を現実よりも可愛く美しく描いたために、モデルの女の子と良い関係になることが多かったらしい。

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 誰だって、現実より可愛く描かれたら、なにか勘違いして画家を好きになっちゃうだろう。

 だけどルノワールの凄いところは、モデルの性格とか、モデルとの親しさとか、愛着とか、そういった中身まで描き出しているところだ。印象派の真髄と言えよう。

 そして、どんな人も美しく描けたのは、ルノワールが素直に人間を愛せる、人懐こい人だったからだと私は勝手に思う。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の前のベンチで、しばらくの間座って、じっと見ていた。

 絵画の前に立って鑑賞する来館者を含めて作品なのだろうと思った。

 その来館者も、私と同じように、絵画の中の誰かになっているんだろうな、ということが、はたから見ていてわかる。それだけこの絵画には人を呑む力がある。

 絵の一部になれる気がするし、私はこの光景を、ずっと昔から、生まれる前から、知っていたような気がする。そんな親しみすら抱かせる。

 

 すぐれた画家とは、すぐれた作家と同じように、誰しもの心の底にある風景を描ける人なのだと思う。

 それは共感を超えた次元にある、鏡としての作品だ。すぐれた作品はフィクションや絵でしかないのに、どうしてだろう、私たちの心を映し出してくれるものだ。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』はあのとき一生分見た。

 15分くらい、世界中で、私一人だけがこの絵画を独り占めしていた時間がある。そこで私はルノワールに会えた気がした。

 

 もう一度見たいと思っている。人の群れの中で鑑賞してもまた面白いだろうと期待して。

 

 まるで舞踏会に私が参加したみたいなタイトルだけど、私は確かにあの時、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会に参加していたのだ。

 

 

昼食の不満

  場のランチは美味しくない。

 このことはとても悲しいことだ。

 オフィスビルの食堂があって、そこで食べるのだけど、それが美味しくない。

 不味いわけではないのだ。ただ、美味しくもない。どちらかというと不味い。

 それに、高い。大して美味しくもないのに600円以上する。それにコーヒー100円で飲んで、ペットボトルのお茶を買ったり、2日にいっぺんタバコを買うために、一日約1000円以上消費することになる。

 悲しい。

 水筒を持ち歩いて、給湯室の水道水を飲んだ方が経済的かもしれない。

 

 働くことの唯一の愉しみは昼食であるのに、それがあまり美味しくないから、悲しい。とくにハズレの日は怒りさえ湧いてくる。どうして600円以上払って、悲しくならなきゃいけないのか、労働は罪なのか、私が何かしたのか、恨む。

 だから外に出て食べればいいのだけど、昼休憩が45分なので、外に出て並ぶほどの猶予は無く、しかたがなく先輩方と美味しくないランチを食べる。

 先輩たちは「今日も美味しくないね」なんて言いながら、誰も笑わない。本当に美味しくないのだ。

 

 美味しくないくせに無駄に量はあるので、苦しい。

 600円……と思うと残せないし、残すと先輩に「だから痩せてんだ」と揶揄されるので、無理矢理食べる。

 不幸で膨らんだ腹は重く、午後の仕事の能率を格段に下げる。

 重い腹を抱えながら、これは食事レイプだ、と思う。

 よくわからない炎上しそうなワードを書いてしまったけど、とにかく私が言いたいのは屈辱的、ということだ。昼食の質がもはや「被害」なのだ。「腹を満たすために食べる」というもはや根源的な食事の目的だけが遂行され、食事の愉しみなどといった文化的・人間的な面はまったく考慮されない。

 恋人以外の他人と食事をすると、どんなに美味しいものだってなんだか味気なくて、それなら一人で食べたほうがまだマシだと思う。職場の人たちと食べると余計に不味い。

 

 職場の人が嫌いなわけではないけど、そういうものである。要するにまだ心を開いていないのだ。

 

 家に帰ると、相続関係の話をされながら夕食を摂る羽目になるので、ほんとうに夕飯の味がしなくて、困っている。

 味気ないなんてもんじゃない。なんとかご飯一杯分食べて、早々に部屋に篭ることにしている。

 

 私の平日の食事の質は、いかんせん人間によって低次なものにされている。

 食事を作るのが人間である以上、食事を共にするのが人間である以上、仕方のないことだ。文句も言わずに腹を満たして生きるしかない。

 室町時代なんかに比べたら食事は幸せな方なのだ。

 室町時代がどうしたというのだろう。

 

 

小説を読んでもらうということ

  久しぶりにじっくり書いた小説を、友だちと恋人に読んでもらった。

    今は便利な時代で、PDFファイルをLINEで即共有できる。江戸時代だったら、わざわざ飛脚を呼ばなければいけないところだ。

 

     ↓

 

    読んでもらうというのは、緊張する。

    なにせ、共有したものは遜色ない「自分」そのものであるから。

    寝ている自分の肌を触られ、「あーここが荒れてるね」とか「お腹はスベスベだな」って見物されるようなものだ。

    

    うまく書こうとするとうまく書けない。

    指先のなすがままに、できるだけ何も考えず、水が器に合わせてかたちを変えるように、地形に沿って流れるように書ければ、一番いい。どうなったって、あとから直せばいい。

   とはわかっているのだけど、なかなかそう、うまくいかない。無意識を書いていると、それは夢のように脈絡がなくなってしまうから。だから筋を考える。でも決して文体のことは考えない。

    文体って、どうしようもないなと思う。ストーリーは学ぶことができても、文体だけは生まれ持って、吸収して、書いたものからしか生まれなくて、どれだけ村上春樹や太宰に似せて書いてもそれは「似ているだけ」であって自分のものではない。

    容姿のように、身長のように、文体に対してはなすすべがないのだ。

    結局のところ文体だけは変えようがないし、文体にこそ自分というものはあらわれる。

 

    私の文体は、まさにこのブログだと思う。

    だから小説もこんな感じで、肩の力を抜きつつ、ストーリーにしたがって、書いた。

 

    ↓

 

    自分で書いてて、読んで、なにか引っかかることは必ず人にも指摘される。

    どうなんだろう、と思っていることは人も「どうなんだろう」と思うものだ。今回読んでもらって、深くそう思った。

    でも自分では、「どうなんだろう」の判断がつかない。どうなんだろうと思ってはいるのだけど、心の中で「どうなんだろう」と言語化してはいなくて、人に言われてようやく、自分の非というか、至っていないところを認めることができる。言葉を与えてもらったかんじがする。

 

    その指摘されたところに向き合っていかなければならない。

    それはつらく、困難で、綿で石を磨き削ぐような途方も無いことかもしれない。

    だけど、その至らないところはまんま自分の心そのものだと思うので、私はそこに向き合って付き合っていかなければならない。

    強さってそういうものだから。

 

 

    読んだ人に「おもしろかった」と言ってもらえてよかった。

    たとえそれがお世辞だったとしても、その一言でまた次の物語は進むことができる。良い風だ。

台風の夜、明けて朝

 晩は物凄い雨風で家が揺れた。

 深夜2時、眠れなくて布団にくるまっていたが、家が揺れているのか自分が震えているのかもわからなくなる。

 一時間くらいそうしてじっとしていた。気付いたら朝になっていた。どうやら少しは眠れたらしい。

 

 暴風雨の中、耳を澄ませると、風にもさまざまな表情があることがわかる。

 暴風故にもちろん風は怒っているのだけど、その怒り方は人間のそれとよく似ている。

 吼えるように家の壁や窓に体当たりをしたかと思えば、電線が風を切る不気味な轟きが聞こえてきて、次第に近づいてくる。どこかでなにかが割れる音までする。激しく揺さぶられる。そうして一時的な感情で物に当たったら、少し疲れたのだろう、途端に静かになる。木々の揺れる音はするものの、先ほどに比べたらそれは静寂に等しい。暴れて怒りが収まったのだろうか。と思ったのも束の間、また遠くからすすり泣くような轟きが聞こえてきて、近づいてくる。瞬間、空が閃く。がーんと後頭部を打ち抜かれたような衝撃と共に今までにない猛烈な風が家を削るように辺り一帯を空中に巻き上げようとする。洗濯物になった気分だ。

 女の怒りかたによく似ている台風だった。

 それは長く、緩急に富んでいて、終わってしまえば何事もなかったかのようだ。関係に傷跡を残しても、見えないフリができる。

 

 そんな冗談はともかく、朝、すべての交通が麻痺していて、私は地元の駅から動けず、仕方がないので家に帰った。

 やれやれ、夏休み明け初日がこれなんて、まるで仕事に行くなと言ってみようなもんじゃないか。ちょっと嬉しかったりもする。

 近所のファストフード店のシャッターが破れていてぶら下がったシャッターがガラス戸にがんがん当たっており、店内は非常ベルが鳴っていた。屯田兵に荒らされたのだろうか。

 道にはさざえが落ちていた。どこから飛んできたのだろう。大冒険だったに違いない。

 近所の家は水道管が破裂していたし、道路は落ち葉まみれだ。ちょっとした世紀末だ。

 

 空は晴れてきた。

 私は家に戻って、電車の運転状況を逐一確認しつつ、このブログを書いている。

 

 昔見たなにかの映画を思い出す。第二次世界大戦中のイギリスを舞台とした、小学生の日常コメディだったような。

 少年や家族は戦火に怯えながらも、その中で小さな幸せや変わらない幸せの在り方を楽しみ、敵国ナチスの新兵器を揶揄する。

 ミサイルなんて飛んで来るわけないだろう。ばかめ。手っ取り早く空襲にきたらどうだ。みたいな。

 すると日曜日の夜、まじで空襲が来てしまう。しかし、ロンドンの空は守りがかたく、ナチスは一網打尽にされ、数か所しか悲劇を与えられない。

 「これじゃあ、学校が休みにならない」と少年は小学校へ向かうと、友だちが校庭でわいわい騒いでて、校舎からうっすら煙が立ち上っている。

 「ミサイルが学校に落ちたんだよ!サンキュー!アドルフ!」

 学校が休みになって嬉しい。めでたしめでたし。

 そういう映画だ。

 

 こうやって月曜日に台風に見舞われて会社に行けず家でダラダラしていると、その映画の中の少年たちの気分がわかる。サンキュー、とはあえて言わないけど。

 

ほとんど世界の終りに等しい

 曜日の朝、起床してから私は活発的で、すぐにベッドから出て、パンを食べ、部屋の掃除を始めた。

 部屋は泥棒が荒らした後のようになっていて、この部屋にいるだけで精神がくさくさしてきて雑念が無意識を蝕むから、片付けねばならないと夏休みに入ったときから思っていたのだ。夏休み中に完了せねばならない。

 

 そのあとギターの弦を交換した。

 ひどく錆びていたので最近弾いていなかったのだけど、換えたらまたいい音がしてきたので少し弾いた。だいぶ鈍った。

 

 今日は日曜日なのにデートに行かなかったのは、台風の恐れがあったからだ。

 だけどすごく晴れている。

 でも夜、万が一大雨になって帰れなくなったら大変なことなので、会わないに越したことはなかった。おかげで部屋の掃除もできたわけだし。

 

 昼過ぎ、急に怠惰になる。

 書きかけの小説があるから書きたいのだけど、体が動かない。

 どこか悪いんじゃない。怠惰なだけだ。

 昼食を摂ってからベッドに寝ころび、ふて寝する。YouTubeを見る。ふて寝する。YouTubeを見る。

 ため息が出る。

 ひたすらため息が出る。

 この部屋をため息で埋めたらブーケだらけになるだろうな。

 

 どうしてこんなにため息が出るのか、原因はわかってる。

 今日で夏休みが終わりだからだ。

 

 9連休なんてとるもんじゃない。

 私は仕事の一切を忘れてしまった。明日自分のパソコンにログインすることすらできないかもしれない。9日間も休んで、新人が仕事を覚えているわけがないのだ。

 会社から一歩外に出たら仕事のことは一切考えないようにしている。なぜなら、その時間はプライベートなわけで、プライベートに仕事を持ち込みたくないし、そんなことは損だから。考えなくてもいいことはできるだけ考えないようにしたい。

 私はわりに頭の切り替えがはやい方で、一度そういう癖をつけるとぱっと切り替えることができて、こういうところは得な性格だなぁと思う。

 だけど、こういう連休の最終日なんかは、どうしても仕事のことを考えて不安になってしまう。

 

 逃れようもなく明日はやって来る。

 明日とは、月曜日である。

 月曜日があまりにも憎くて、そういう140字小説を書いた。

  

 そこそこ人気みたいだ。嬉しい。

 

 はぁ~~~~~~~

 

 どうすれば月曜日のことを好きになれるだろう。

 月曜日を迎える心が穏やかであれば、人生は少しだけ浮力を得ると思うのだが。

 とにかく生きるしかない。

 生き延びて週末を迎えるしかない。

 来週は3連休なのだ。しかも2週連続。それだけが生きる糧だ。

 

 台風が近づいてきた。

 どうやら、首都圏のJR在来線は月曜日の朝8時まで運転しないらしい。

 こういうときどうしたらいいのだろう。

 新人だからわからない。

 

 

 うんこ!うんこ!わーい!!!

 ぱっぱっぱっぱっ〈花〉

 あ~よかったなぁ~あなーたがーいてーぁあ~~~~~~

 すごく小さい銀河。

 ミント味の肉

 ぼくはぼくはぼくはぼぼぼぼぼくは死にま死にま死にま死死死死しぇしぇしぇしぇぼくはぼくはぼくはしぇしぇしぇ死にま死にましぇしぇしぇしぇしししししししし

 ぼくは死にましぇーん!!!!!

 

 

 小発狂しちゃいました。

 突然びっくりしましたか?

 あなたは私ではない。

 

 さよなら。

 

 

変わりゆく「待ち合わせ」の心持ち

  昔は──私がまだ小学生くらいで携帯電話を持っていなかった頃は、待ち合わせが不安で仕方がなかった。

    あいつはちゃんと時間通りに来るだろうか、もしかして急遽来れなくなったなんてことはないだろうか、私はいつまでこの雑踏の中で待つのだろうか、と不安だった。

    時間を過ぎても待ち人、来ず、の場合はさらに不安になり、弱い心で雑踏の中にいると孤独が増悪して自分が何者なのかも見失い、宇宙船から投げ出されて宇宙空間の虚無にたった一人浮かび酸素が尽きて死ぬのを待っているような、耐え難い孤独感に襲われて、狂乱してしまう。

 この孤独はどうすることもできぬ。待ち人が来ない限り。他力本願だ。

    死のう。そう思う。

 

 昭和時代や平成の初期はケータイなんてなかったわけで、待ち合わせは常にそういう不安が伴っていたのだと思うと、考えるだけで胃がきゅっとなる。よかった。平成7年生まれで。ケータイが普及してからの方が人生長くて。

 

  ↓

 

 中学くらいまで、友だちの家の最寄り駅に伝言板が設置されていた。

 

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 「大好き byかんた」ってなんだよ。インターネッツの拾い物だ。

 最寄り駅にあった伝言板はもっと小さく、かなり年季の入ったもので、チョークがしけっていて数か月前の伝言がずっと残ってるような、時代を漂流した遺品みたいな代物だった。

 まさかそこに「XYZ」と書く人間もいないし、私も使ったことはない。待ち合わせするときに、目の端に入っていただけだ。

 たぶん、その伝言板はもう撤去されたと思う。

 今思えば、伝言のひとつでも書いておけばよかった。

 「参上!」とか「アベやめろ!」とか「リメンバー・パールハーバー」とか「色即是空」とか「春暁 春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少」とか、そういったことを自由に書けばよかった。

 「いつものバーで」なんて書いておけば、それを見た誰かが物語を思いつきそうだ。

 あるいは大喜利のお題を書いておけばよかった。

 「こんな車掌さんはクビだ。どんな車掌?」

 駅員が答えてくれたかもしれない。

 

 伝言板絶滅した説、ある。

 だってもう令和だ。伝言板が設置されてる駅がある邑(むら)は恥じた方がいい。その地域ごと時代の遺品になってしまうぞ。

 

  ↓

 

 今の時代、ほとんどの人がケータイを持っているわけで待ち合わせ相手とすぐに連絡が取れるし、しかも待ち合わせの暇な時間にTwitterを眺めたりまとめサイトを見たりゲームをして時間を潰していられるわけだから、待ち合わせにより生ずる不安はほとんどない、と言える。

 特に慣れた相手だと不安なんてまったくない。

 あの不安感も、時代の遺品になってしまうのかもしれない。

 そう思うと、今一度あの絶望的な他力本願的孤独に浸りたいと思ったりもするのが人間の勝手な情緒で、今度のデートはあえてスマホを家に置いていき、カメラもインスタントカメラを持っていこうかしらなんて思ったりもする。

 

 やらんけど。