蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「みすず学苑」CMの魅力

  年に何回かおとずれるマイブームがある。

 グミばっかり食べてしまうグミブームや、YMOばかり聴いてしまうYMOブーム、そしてみすず学苑(がくえん)のCMばかり見てしまうみすず学苑CMブームだ。

 

 

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 首都圏に住んでいない人は「みすず学苑」とはなんなのかわからないだろう。

 決して、女学生の格好をした成人女性が成人男性と個室で恋愛関係に陥り即座に肉体関係を結ぶものの数時間で破局をしてしまうテイのフーゾク的な店のことではない。

 みすず学苑とは、学習塾である。

 正確に言うならば、大学予備校である。

 

 

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 とりあえず上の広告を見てほしい。

 そう、信じがたいかもしれないが、これは「広告」なのである。

 ヤマトタケルとウニ、フグ、カニに扮した人々、荒波と降り注ぐ「プリン」、極彩色の鳥、そして野太いフォントの「怒濤の英語と個人指導!」。

 情報量が多すぎるし、それぞれのキャラクターと背景の不条理ともいえるほどの関連性の無さ、論理的とか意味といったものから逸脱したこの広告は、驚くべきことに首都圏を走るJR線の車内広告なのである。

 わざわざ探さなくても、2日にいっぺん見るくらいの頻度で掲載されている。河合塾とか東進ハイスクールとか駿台予備校といった大手予備校の広告よりも目にする機会は多い。

 

 みすず学苑について調べてみると学苑長は宗教家の深見東州氏で、その時点でめちゃくちゃ怪しいのだが、職員が仮装しているという点も怪しさを極めており、校舎情報のページを見ていると、もしかしてこれは宇宙人が地球に馴染むための勉強をする塾なのかな、と思えてくる。

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校舎一覧 アーカイブ | 予備校なら怒濤の英語「みすず学苑」

 

 生徒の評判を見てもさまざまで、まぁこれは結局のところ志望校に合格した人と合格できなかった人とで評価は分かれるし、結局どの予備校に通っても勉強するのは自分自身なので、評価そのもので判断することはできない。

 ただ私が拝見した限りだと、「良くもないし悪いこともない」といった印象だ。

 

 

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 みすず学苑CMとはなにか。

 

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 とにもかくにも、この動画を見てほしい。(なんと「公式チャンネル」である)

 

 これがみすず学苑のCMの魅力を語る「すべて」です。

 

 私は休みの日、一連のみすず学苑CMをYouTubeで一時間おきに観て過ごしてしまった。気が付いたら日が暮れていて、途方にも暮れた。

 妙な中毒性がある。

 CMの内容は、動物や歴史上の人物や昔話の登場人物に扮した人々がダジャレを交えて(それもレベルの低い無理矢理感の否めないダジャレである)、科目や受験に関する悩みをおそらく吐露しているものとなっており、ところで「おそらく」と書いたのはもう数百回もみすず学苑CMを観ているにも関わらず内容がひとつも頭に入っていないからなのであるが、それはそうと、最後の4秒は必ず「怒濤の合格みすず学苑!怒涛の合格みすず学苑!怒涛の合格!」と連呼、背景にはプリンやキュウリが降り注ぎ、ヤマトタケルや縄文太郎(なんなんだ)が腕をガシッガシッとさながらアッパー・パンチのごとく振り上げるというまったくわけがわからないが、「怒濤の合格」だけが頭にこびりつくものとなっている。

 こうやって書いていると、私の頭がおかしくなったんじゃないかと思われそうですごく嫌だ。

 だけど、このわけのわからなさが、クセになる。

 

 人によってはすさまじい嫌悪感を示すだろうし、共感性羞恥で死ぬ人もいるかもしれない。

 下品だ。そう言う人もいるだろう。

 だけどみすず学苑のCMの魅力はその憎悪の感情を超えた先にあるもので、そこには不思議と、水色紫色縞模様に輝く太陽のような「陽」「気」で溢れている。その唯一無二の温度と深爪で皮膚を掻くようなほのかな痛みと苦痛、そして脳を支配する不条理と、「怒濤の合格」の連呼が洗脳的に快楽を供給する。

 

 たとえば、ブルーチーズという青カビの生えたチーズがある。

 これはあえて腐らせたチーズで、強烈な悪臭を放ち(炭鉱夫の履き古した靴下みたいなにおいがする)、いちど犬に嗅がせてみたら部屋中を吠えながら走った、そのくらいクサい食品である。

 味の方はじゃあ美味しいかというと、そうでもない。まぎれもなく炭鉱夫の靴下の味がする。

 子どもは食べれないだろうし、大人でも苦手と言う人は多いのだが、それでも古くから淘汰されずに今日まで残っているのには人を惹きつけてやまない「魅力」があるからだ。

 その「魅力」を知るにははブルーチーズのあのにおいと味の「クセ」を"嫌悪"から"娯楽"に心変わりすることでしか得られない。

 なにかを越えなければ到達できない愉悦なのだ。

 

 みすず学苑のCMの「魅力」はそうして獲得される種類の「魅力」である。

 

 こう書いて、私の頭がどうかしていると皆さんに思われるのは心外なので、今日は皆さんにもみすず学苑のCMの魅力を伝えたい次第なのである。はたして成功しているかは怪しい。

 これは言葉によって為されるものではなく、ひとりひとりが積極的にCMを鑑賞し、心の中でそれを楽しむ自分を発見できないと達成されえない。

 物事を楽しむにはその人の心の持つ素質や資質が必要なのである。

 

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(お気に入りのやつ。"怪人二十にメンドくさい"のくだりで必ず爆笑してしまう)

 

 

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 みすず学苑のCMで得られる情報は、ほとんどない

 「予備校である」ということだけである。

 なんなら「ヤバイ予備校である」ということだ。

 あれだけの情報量と勢いにもかかわらず、視聴者に残すものは「印象」だけで、しかしながら広告としてはそれで充分成功している。すごい。広告の「印象派」だ。むしろ「シュルレアリズム」ですらある。

 

youtu.be

 

 

 今朝、出勤中にプッチーニ誰も寝てはならぬが頭から離れなくて、何かと思ったらCMのBGMで使われていたのが脳にこびりついていただけだった。

「怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!怒濤の合格みすず学苑!と心の中で詠唱しながら鏡の前で腕を振り上げていたら、妙に愉快な気持ちになった。休み時間に会社のトイレでやったら効果抜群で、ちょっと日課にしようかな、と思ってる。

 

 このように、みすず学苑は私の日常生活を蝕みつつある。

 すっかり虜(とりこ)だ。

 

 じゃあみすず学苑に通おうかな、と受験生時代の私が思ったかというと、まったく思わなかったのだから不思議なものである。

 

【提案】毎日建国記念日にしませんか?

 日は建国記念日ということで、早起きをして日の出に向かって柏手(かしわで)を3発、ぶちかましてやった。

 

 サンキュー・ジャパン。

 

 私は建国記念日が好きだ。

 とくに、火曜日お休みというところが、好きだ。

 月曜日の朝は毎週懲りもせず憂鬱を濃縮したような気分ではっきり言いますと「生」よりも「死」を想う時間の方が多いのだが、今週はちがった。

 なにせ、月曜日出社すれば、翌日はお休みなのである。翌日が休みということは、月曜の晩はいくら夜更かしをしてもいい。そして火曜日は何時まで寝ていたっていいし、昼間から酒を飲んでもいいし、貝殻を拾いに行ってもいい。

 金曜日のジェネリック。今週の月曜日はそれであった。

 だから、いつもの月曜日とは憂鬱の度合いが違っていた。「死」について想う時間は通常の3分の一ほどに減り、道端の草木に「おはようっ!」と挨拶してまわりたくなるような、朗らかな気分ですらあった。

 仕事が嫌であることには変わりないのに、火曜日に休みがあるというだけでここまで心持は違うものかと思う。

 さらにもうひとつ建国記念日には優れたところがあって、こう書いていくと蟻迷路は右翼なのではないかと勘違いされるかもしれないが、静聴せぇ、静聴せぇ、男一匹がだ、こうして話しているのだから政治思想の話は無しにして、建国記念日の優れているところを語らせてくれ。

 

 火曜日がお休みだと、水曜日から金曜日は働かなければならない。3連勤、である。

 通常は5連勤であるのに、今週は3連勤でいいのだ。

 5連勤に比べたら3連勤なんて軽い軽い、時間はあっという間に過ぎていくだろうし、仕事もむしろダラダラせずに捗るに違いない。

 三連休だと、4連勤になってしまう。4連勤ですら肉体と精神の疲労度は5連勤に比するとそうとう軽くなるのに、それをだ、たった3日働けばいいだなんて、ちょっとサービスすぎじゃないか。怪しい。もしかして、3連勤の甘さを味わわせて来週から5連勤できなくさせる魂胆なんじゃないか。

 じゃあ私は休日出勤して甘んじないようにしよう、とは考えず、甘い水をすすってしまう弱い虫。

 

 みんな普通に5日間働いてるけど(私も)、5日連続で働くなんてどうかしている。みんな鋼の連勤術師だ。(これが言いたかっただけ)

 

 

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 そういうわけで、今日は建国記念日そのものに感謝をして止まなかった。

 日の出に柏手を食らわせ、あえて早起きしたのには時間を有効に使うためである。私は朝から洗濯物をし、コーヒーを淹れ、読書をした。先日芥川賞を受賞した『背高泡立草』である。

 ああ、すてきな休日。

 建国記念日万歳。

 ところで建国記念日とはなんだろう。日本が成立した日のことなのだろうか。よくわからないな。

 そこで思いついたのだが、もしかしてみんなで建国しちまえば、毎日建国記念日になるって寸法なんじゃないですけい?

 

 わっはっは。

 国を建てやう。国を建てやう。八重垣をめぐらさう。柱を立てやう。妻を囲をう。苗を植ゑやう。

 

 なんだかめでたい気持ちになって、さかんにお天道様に柏手をしてやった。ぱんぱんぱんってな具合に。お日様はペンギン村の太陽よろしくニコニコしており、その光の中で一切は幸福であった。

 サンキュー・ジャパン。

「地下謎への招待状2019」に参加した僕ら

  「私は今、"謎"に飢えているの」

 土曜の夜に恋人がそう言った。わけではないけど、ちょうどいいデートコースを見つけたというので聞いてみたら、それは東京メトロが開催している謎解きイベント「地下謎への招待状2019」のことで、いったいこれがなんなのか、東京メトロはなにをしたいのか、謎とはいったいどういうことなのだろうか、という大したことのない謎を抱えてしまった私はそれを解明する気もなく、どうせ行くところもないマンネリ気味な最近のデートだったからこりゃいいやと思って、恋人と二人、日曜日に謎へ潜った。

 

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 謎解きイベントなんて参加したことがない。

 ようするに東京メトロのいたる駅にナゾナゾが仕掛けてあり、それを解くことで次の駅へ導かれ、ついでに下車した駅でカフェへ立ち寄ったり雑貨屋を覗くなどして「知らなかった東京」に触れることができるのだろう。

 謎とは、どのくらいのレベルなのだろうか。

 前知識もなく、とりあえず定期券売り場で謎解きキットを購入し、恋人と早速第一問へ取り掛かった。

 

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 第一問は丸ノ内線新宿駅改札付近に設置されており、すでに数十名の回答者がたむろして謎解きに興じている。

 人は謎に飢えているのかもしれない。

 いまや手元のGoogleで宇宙の誕生の経緯すらも知ることができる時代、私たちは「知らない」を、「思考」を、求めている。

 第一問はそこまで難しくなくて、ぱんぱんと手を叩くようにして解き終えた。

 この程度の問題が続くなら安心だ。馬鹿を露呈させることなく恋人の前で格好つけていられる。

 大問は全4問あって、それぞれ前の問題の解答をすると次のステージへ進めるよう工夫されている。

 第一問を解いた私たちは、次なる二問めの駅へ向かった。駅の選択肢は6つあり、そのうちから2つ選ぶことで難易度ごとに設定された問題を解くことができる。

 若干、ここから先はネタバレになるのでこれから参加しようとする人は気を付けてほしい。

 

 私たちが選んだのは神楽坂(かぐらざか)駅と湯島(ゆしま)駅だった。

 神楽坂はなんかオシャレで美味しいランチを食べられそうだからという理由で、そして湯島は「高難易度の問題がある」という理由で選んだ。

 湯島の問題ページに「これは本当に難しい」と書いてあり、回答目安時間も「60分~」と書いてあった。

 最高でも60分かかるのではない。

 最低でも60分かかる問題なのだ。

 しかし私たちは、まったく恐れていなかった。

「これが高難易度と知ってしまったら、たとえ他の駅を選んだとしても、湯島の問題はどれだけ難しかったのだろうと一生気になる気がする」

「僕たちは大学を出ているわけだし、頭は良くないかもしれないけど馬鹿でもない」

「湯島は上野に近い。上野は私たちもよく行く街だ」

「この高難易度(笑)とやらに正解できたら、あとはもうお茶の子サイサイであろう」

 私たちは、まったく恐れていなかった。

 今思えばあの妙な自信の根拠はまったくなくて、この現象はノー勉強にもかかわらず臨んだ試験を前にして満点はとれなくても8割はかたいだろうと思えてくるあの現象に似ていた。

 

 神楽坂でランチに舌鼓を打ち、さっさとそこの問題を解いて、湯島へ向かった。

 湯島で問題を解きはじめる。簡単な穴埋めだった。街を歩いて、指示された景色から暗号の穴埋めをするのだ。

 楽勝。

 そう思って暗号文の下を見ると、「ここから先はどこか落ち着いて考えられるカフェなどに入ってじっくり考えるべきだ」といったことが書かれていた。まだまだ湯島の問題はつづくのだ。

 私たちは、意を構えてカフェへ向かった。

 

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(カフェ:うさぎやCAFEのめちゃくちゃ美味しいどら焼き。食べてていろんな意味で頭がおかしくなりそうだった)

 

 私たちはどら焼きを食べながら、その難問に挑んだ。

 

 開始5分くらいは「おっ、いけそう」「いけるいける」などと思っていたが、10分経って15分経って、しだいに青ざめた。

 それだけ考えていたのに、この謎解きにまったくなんの足掛かりもないことがわかったのだ。

 なんだこれ。めちゃくちゃ難しいじゃないか。

 めちゃくちゃ美味しいどら焼きの味がだんだんしなくなってきた。美味しいのに、なんか印象に残っていない。勿体ない。難問に頭を抱えながら食べてよいものなんてなにひとつなかったのだ。(また今度行きたい)

 

 30分ほど二人で頭を抱えて、ようやく考え方の道筋を掴めた。

 だけど、考え方がわかったからといってもすんなりいくものではない。まるで森の地面の下にある木の根が絡み合ってるのを、地面を掘らないでスケッチするみたいに難しいのだ。

 それでもなんとか解きすすめていったが、途中で回答が破綻していることに気付き、詰んだ。

 ついに私たちは「ヒント」を見ることになった。この謎ときにはサイト上に、行き詰ったときに参照できるヒントが提供されているのだ。

 そのヒントを見たら、私たちと同じ考え方を提供していただけで絶望した。なんのヒントにもなっていない。

 ただただ時間は過ぎていき、寒さは深まるばかりであった。

 

 

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 15時過ぎからその難問に取り組み始めて、カフェからカフェへ移動し、いまや19時ちかくになっていた。

 私たちは、4時間もかけて湯島のその問題を、数あるヒントを参照しつつ、ほとんどカンニングするみたいにして、解いた。

 

 敗北。

 

 その一言に尽きる。降参だった。

 まだ大問は2問残っているのに、時間は19時をまわり、もはや次へ進むことはできなかった。ギブアップ。負けだった。

 でも他の問題は簡単かもしれない、と思ってためしに取り組んでみたら全然解けなくて、私たちは4時間も脳をフル回転させてヘトヘトであることに思い当たった。

 時間的にも、疲労的にも、そして認めたくないが能力的にも、ここで終わりだった。

 

 恋人は悔しそうな顔をした。憤ってさえいた。

 私はもともとゴールにこだわっていなかったので、残念だとも思わなかったけど、またひとつできなかったことが増えてしまったというそのことが悲しかった。

 私は成功体験でしか前へ進めないのだ。

 私たちは湯島を選ぶべきではなかった。身の程を知るべきだった。あるいは60分経った時点で半分も解答できていないのなら、諦めて他の問題のある駅へ移動すべきだったのだ。

 失敗体験は次へいかされるかもしれない。ただし、次があればの話だが。

 あらぬ暴言を思いつくだけ吐き出したくなった。だから恋人の手を強く握って、上野の街を歩いた。とても寒かった。

 

 私も悔しかったのだ。

 

 

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 だから謎ときにはいつかリベンジするとして、このデートにはいくつか素敵な発見もあったことを最後に書いておきたい。

 普段降りない駅で降りると素敵なお店が見つかって、美味しい思いができるということ。

 東京は狭くてごちゃごちゃしているけど、なんでもあるし密度が濃いということ。

 それから、恋人と二人で悩むのはなんだかとても楽しいということ。

 

 私たちはこれからも多くの謎や難問につきあたり、二人の問題を解こうとするだろう。

小説家・町田康さんの講演会に行ってきた

 田康さんの講演会に行くのはこれが二度目で、前回の講話もたいへん興味深く、勉強になったので今回も楽しみにしていた。

 

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 結論から言えば、今回もやはり勉強になったし、興味深かったし、楽しかったしおもしろかった。

 90分という時間は使い方によって10分にも900分にもなるちょうど絶妙な時間設定で、私はこの講演会を10分で終わったんんじゃないかと錯覚した。でも気付いたらA4レポート用紙5枚分のメモを取っていた。

 大学生のとき90分授業だったのだが、おもしろい講義はやはり10分くらいの体感で終わるのに、だらだらした講義は900分くらいに感じる。退屈だし眠いものだ。映画にも同じことが言える。

 

 町田さんの教室はおよそ100人くらいが座れる広さで、9割くらい席が埋まっていた。人気の作家なのだ。人気の作家になりたいものだと思った。

 現役小説家、それも今や日本の文壇を牽引する作家の生(なま)の話が聞けるとなるとそれだけの集客力があるのだ。

 

 私が町田康さんの作品を初めて読んだのは大学の講義で、テクストを題材にして文体研究がされていた。不勉強だった私はそのときはじめて町田作品を読んで、「こんなことがあっていいのか」と衝撃を受け、それから氏の小説やエッセーを読み漁った。

 誰にでも書けそうなものだけども、実はとても計算された文体で、軽くてリズミカルな文章にもかかわらず時折難しい語句が紛れていてそれもまた計算のうち、勢いがある文体なのに書くべきところを的確に書く抑制された文章であって、いざ真似をして書こうとしても半端な勉強と練習では到底及ぶものではない。と、こんな風に私ごとき若輩者が批評じみたことをするのも大変烏滸がましく申し訳ないので、文を消そうと思った。勿体ないので消さんが。

 はちゃめちゃな展開をする小説が多いけど、その実は展開に対してとてもフェアで論理的、不思議な説得力があって天地が翻る展開でも「まぁ、そうなるわな」と思えてしまう。内と外とのその矛盾がまた不和を生んで、がんじがらめにする。それへのどうしようもない怒りや諦めみたいなものがある。

 こう書くとなんて怖い作品だろうと思われるだろうが、読んでみると可笑しくてたまらない。

 はっきり言って、爆笑して読めないくらい面白い。

 音読すると呼吸困難になる。電車の中ではとても読めない。それくらい可笑しい。

 だけど、読み終えてハッピーな気分にはならない。町田作品を読み終えたときにしか味わえない、どーんと沈んだ気分と笑いによる身体の疲労と、なぜかすがすがしさがある。長距離泳を終えたときのような感じになる。長距離泳をしたことはないが。

 

 町田康さんは、私がとても尊敬する作家なのだ。

 

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 作者の作品に通底するのは「笑い」だ。

 その笑いとは、文芸表現全体にかかる笑いである。

 この笑いの正体について、私はなんとなくわかっていた。それを実践できるかどうかはともかく。

 その「なんとなく」をこの講演会で町田さんが言語化してくれて、「理解」から「了解」と腹の一段深いところに落ち込んだ気がした。そのせいかよくわからないけど、帰りにすごい腹を下してしまった。

 

 ここであえて講演の細かい内容について触れないのは、私が町田さんを本当に尊敬しているからだし、町田さんの作品を「おもしろい」と言って爆笑して読むことのできる当日集まった読者の方々を信頼しているからである。

 andymoriを好きな人、スピッツが好きな人、くるりをよく聴く人と同じくらい、町田康さんの作品を爆笑する人のことは信頼できる。

 同じく私が尊敬してやまない村上春樹氏の読者はなぜかちょっと信頼できない。

 

 

トマトソース・スパゲティの午後

  帰ったらスパゲティを茹でよう。トマトソースを作ろう。私はそう思った。

 

 トマトソースというものは、料理をしない人にしてみたらなんだか難しそうに感じられるものだが、実はとても簡単である。

 と言っても、私は何かレシピを見て作ったわけではなくて、その昔母に聞いただけだ。

「トマトソースを作ってみたいのだが」そうLINEで訊くと、母は熱っぽくならずに「やってごらんなね」って文調で答えてくれた。

「トマトをいくつか買ってきたら、まずは洗う。洗ったらぶつ切りにする、潰すくらい切る。ニンニクと玉ねぎもみじん切りにする。フライパンにオリーブオイルを温めて、ニンニクとたまねぎをやわらかくなるまで炒めたらトマトを入れて、弱火で煮込む。水分はトマトから出るので充分だから、足りないようだったら水を足してね。塩・胡椒を好みの量入れて、コンソメをちょっと入れると美味しくなるよ」

 私はこれだけを聞いて、あとは勘でトマトソースを作ったが、それっぽくなったので、以来、このレシピを忠実に、柔軟に守っている。

 

 トマトソースを煮込むことは、なんだか生活をしている感があって心地よい愛着がある。

 シンプルな素材がひと鍋に煮込まれてぐつぐつ音を立てているのを弱火で見つめていると、ああおれはちゃんと生きてるんだなって確かな気持ちになる。

 おれはこれからこれを食べるために生きるのだ。生きるために食べるのだ、と丁寧な気持ちになる。死ぬのではない。生きるのだ。文化的な生活をするのだ。敬虔な気持ちにさえなる。

 時間をかけてトマトソースを作ることは、なんだか祈りにも似ている。

 

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 こうしてトマトソースができたので、余熱で蓋をして、その間にスパゲティを茹でる。

 スパゲティの茹で方は結局のところ水曜どうでしょう大泉洋のやり方に収束する。そこから学ぶべき点は多くある。

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     (水曜どうでしょう アラスカ編より)

 大泉洋は「スパゲティを茹でるときはいっぱいの水で、塩を入れます。海水くらいの濃さが目安です」といったようなことをのたまって大量のスパゲティを茹でるのだが、麺の量と茹で時間さえ気をつければ彼の言っていることは、正しい。

 なぜなら、やってみればわかるが、大量の水と海水の濃さで茹りゆくスパゲティたちはとても楽しそうだからだ。

 沸騰したお湯にスパゲティをさっと撒き入れしばらくすると、くにゃりとなった麺が不思議と踊り出す。

 菜箸で麺たちを遊ばせてやる。

 鍋いっぱいに広がったり、ひとつにまとまったり、絡み合ったり、菜箸に猫のように絡みついてきてなんだか愛らしい。湯の気泡に体をくねらす姿は美しくすらある。

 野生のスパゲティたちも、あたたかい海でこのように交わい、踊り、ときどき波に身を任せたり、夜に浮かぶ緑色の月を眺めたりしているのだろう。

 遠い平行世界のワイルド・スパゲティたちの青春に思いを馳せる。

 

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(茹でてるときのスパゲティを写真に撮ったら抽象画みたいになった)

 

 スパゲティの茹で時間ははたして難しい。

 ソースにからめる時間を考慮すると、やや固めで湯から上げてやるのがよろしい。

 

 そうしてソースにからめてやって、皿に盛る。

 

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 トマトソース作りすぎた。

 麺が埋まった。

 

 でも味は美味しかった。

 バジルがあったら気が利いてたな、と次回への反省にする。

 トマトソースを今まで何度も作ってきたけどバジルを入れたことは一度もなくて、毎回「バジルがあったら気が利いてる」と批評している。

 

 料理とは登山によく似ている。

 ひとつひとつの行程を踏んでいくことで料理はできあがり、テンポよくやれば、着実にやっていけば美味しくできあがる。見晴らしの良い頂上へたどり着く。

 ただ、登山が山頂に到達して終わりではなく、下山しなければならないことと同じように、料理は片付けをしなければならない。

 これが面倒くさい。

 さらに厄介なことに、片付けをしないと悪臭を放ち不衛生だし、洗い物が溜まると心が荒み、やがて生活が荒廃し、人生が腐る。

 だから片づけをしなければならない。下山しなければいけないのと同じように。

 

 

「猫耳」がざわつく

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 耳美少女画像を朝からTwitterで見ていて(出社前はあえて馬鹿馬鹿しい漫画を読んだり、動物の赤ちゃんが転がる動画を視聴したり、美少女画像やエロ画像を見るようにしている。そうすることで(じゃ)の気を祓うのだ)、

いいなぁ、なんだかんだ猫耳って王道だよなぁ、

って温かな気持ちになっていたのだが、ふとしたときに昔からの疑問が忍者のようにさっと脳裏を通り過ぎていくので、素直に100%「猫耳はいいよなぁ」と思えなくなってしまった。


 昔からの疑問とはなにか?
 
 それは、猫耳美少女の耳どうなってるの問題、である。
 
 猫耳美少女が登場する漫画の設定はたいていの場合、人と獣のハーフ(そういう種族)か、なんかそういう神さまや妖精的なやつや、単にコスプレをして猫耳をつけているかのいずれかである。
 その中だったら断然、普段真面目な学級委員長が文化祭でイヤイヤ猫耳をつけて恥ずかしがる系のやつがいちばん好きだけど、正直どの猫耳も可愛いので素晴らしい。
 ただ気になるのが、猫耳が「耳」として機能しているか、ということだ。
 コスプレの場合、もちろんそれは飾りの耳であり本来の耳は人間の耳であるけども、精霊やハーフ系の「耳としての機能を持つ」猫耳少女の耳はどうなっているのだろうか?

 気になって仕方がない(実はそうでもない)。
 

 

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 あまり猫耳少女のフリー素材がなかったので、仕方なしに自分で描いてみた。

 

 どん。
 

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           (図)


 「■ 備考」の位置を計算に入れてなかったし、ぜんぜん下手くそになっちゃったけど、説明するための「図」としては機能しているので及第点としよう。そもそも会社の書類にイラストを描いてる場合ではないのだ。


 (図)のように、人間の耳があるべき位置が髪で隠れているイラストははたして多い。
 なぜだろうか?
 たぶん、描く側も「そういえば人間の耳があるべきところはどうなってるんだろう」と思って判断を避けているのだ。
 「人間の耳があるかもしれないし、ないかもしれない。わからない。見る人の解釈に任せよう。こういうのを解釈可能性の地平、と言うのだ」とか言ってるのだろう。

 

 逃げるな。

 本当はわかっているはずだ。

 

 猫耳が本来の耳として機能しているのであれば、人間の耳があるべき位置はのっぺりとした肌がつるつる広がる虚無の場所である」ことを!

 

 そうなると猫耳美少女は作品のベクトルの向きを変えて「妖怪」になってしまうので、そこを誤魔化すために髪の毛で隠しているのだろう。

 

 

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          (図2)

 

 2度目に描いたからには多少コツをつかんだと思ったけど、でだめだった。

 イラストは目が命。

 なぜか私の描く「美少女」とやらは幸薄そうな相貌の、死んだ目になってしまう。

 みんな目が死んでる。

 なんなんだ。

 あと、セーラー服を描いてしまうのはなぜだろう。気付いたらセーラー服になってしまう。

 うっすらと先に描いた「図」の跡が残ってるし。ノイズが多すぎるな。

 

 まぁいいや。

 図2にあるように、「妖怪化」から逃げなかったイラストの多くは人間の耳が描かれることになる。

 たいへんこれは、疑問である。

 こうなるとよくない。

 耳が4つあることになってしまう。

「コスプレの可能性」も捨てきれないけど、ストーリーの中で猫耳に触れて感じたり(「しゃ、触(しゃわ)らないでぇ~♡」的な)、ぴくぴく動かされるとそこに通う「血」を思ってしまって、なんにも集中できなくなる。

 この耳は「耳」として機能しているのだ。この少女は耳が4つあるのだ。その思考がノイズとなってフィクションの世界から心を引き離してしまう。

 これはこれで「妖怪」になってしまうのだ。

 

 猫耳美少女イラストには、かくのごときジレンマがある。

 

 ↓

 

 じゃあどうすればいいのかというと、どうしようもない。

 「こまけぇこたぁいいんだよ」の精神で、気にしないことにするしかない。

 だから作者方は気にせず好きなように描けばいい。

 「解釈可能性の地平」なんて言葉気にしなくていい。そんな言葉存在しないのだから。猫耳美少女と同じように。

 

いい夢みろよ☆

  ぜんぜんいい夢を見ない。

 私は悪夢的なものばかり見る傾向にあって、とことん悪夢ではないけどじっとり腋汗をかくようなプレッシャーのある夢だったり、そこはかとなく憂鬱なものだったり、面倒くさい人間関係に関する夢だったり、要するにストレスのある夢ばかり見てしまう。

 夢なので、突拍子もない設定が付与されていたり、展開が時間や因果ではなく印象によって結びついて場面が転換されるなどは序の口だが、通底しているのは「ストレス」や「恐怖」で、目覚めの気分はいつも悪い。

 悪夢を見なかったとすれば、夢も見ないでぐっすり眠った、ということになる。私の夢見の悪夢率は9割7分くらいだ。チートのバッターか。

 

 父が存命中だったころは、ほぼ毎晩、父の夢を見ていた。

 直接的に父が登場することもあったし、父的なもの(権威的だったり暴力的だったり圧倒的だったり断絶的だったりするもの)が登場して私を嫌な気持ちにさせた。

 だけど、去年あいつが死んでから、一切父の夢を見なくなった。

 いや、一度だけ見たけど、そのとき夢に現れた父は恐怖の対象ではなくなっていた。

 

 一年くらい前の私にとって、父とは嫌悪の象徴で、目の上のタンコブで、厄介そのもので、常に呪いを吐き続けるそのものだったのだ。

 今はそのかけられた呪いを解くのにたまに厳しい気分になるけど、少なくともこれ以上心を痛めつけられることはないのだと思うと安心できる。だからもうあいつの夢なんて見ないだろう。

 

 では現在、なんの夢を見るか?

 もちろん、仕事の夢だ。

 まるでその日一日を反芻するかのようなオフィスで働く夢も見るけど、一番多いのは「仕事的な夢」だ。

 私にはなんらかのやるべきことがあって、他人に教えを乞い、相手方とスケジュールを調整し、確実にそれを遂行しなければならない的な夢だ。

 なんの面白みもないし、疲れる。

 どんだけ仕事嫌なんだと自分でも思うけど、気に病むほどではなくて案外鈍感だし、まぁもうどうにでもなれ!って気持ちもある。一方で、これからどうなるのか、なにをどう頑張ればよいのかわからない、何も面白くない、という不安と焦燥感がある。

 

 

 せっかくプライベートなブログなんだから、仕事の話はよそう。

 

 私はこのように夢見が悪いので、あまり眠りというものが好きではない。かといってよく眠らないと駄目な体質なので少なくとも一日7時間は眠りたい。だけど眠りたくない。どうしたらいいのかわからない。

 こういうときは寝るにかぎる。

 

 いちばん良い夢は、恋人と会う夢だ。

 100日に一回くらい見れる夜がある。夢の中はふわふわしていて、なんの憂鬱もなくて、このままずっと眠っていたい、夢の中で抱き合いたいと踊り狂っちゃう夢だ。

 そして、いちばん寂しくつらい夢もまた、恋人と会う夢だ。

 起きたとき、猛烈に切なくなる。