蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

日曜夜22時30分、最後の抵抗

が風呂から上がると彼女は肢体をベッドに放り出してうつぶせになり、たぶんそのまま窒息死を試みていた。

「風呂あがったよ」

ぁぃ」殊更小さなその返事にはもう何もしたくない、明日が来なければいい、そんなニュアンスが含まれている。

 

明日は待ちに待った月曜日です。

 

日曜夜22時30分、最後の抵抗がはじまる。

 

 

彼女はベッドからすべり落ちるとそのまま座椅子ソファにうずくまり、「たまごになっちゃった」と言って静止した。

「たまごになっちゃったの?」一応私は訊く。

たまごになっちゃったの、って結局何も言っていないみたいな答え以外に得られるものはないと知りつつ、それでも一応私は訊く。なぜなら、ここで無視すると彼女はすねて不機嫌になり「わたしのことはもう愛していないのね」とやたら事を大きく解釈して寝る前に呪詛を唱え始めるからだ。そうなると堪らない。

彼女はうずめていた頭を上げ、ぼさぼさの髪を広げて、「今日はイースターだったんだよ」と言った。

へぇ。

イースターにまつわる洒落のひとつでもあればよかったのだが、あいにく不勉強でなにも閃かず、私が「へぇ。」と虚空に音を漏らすとまた彼女は身体を丸めて たまごになった。

 

彼女なりの闘いなのだ。

嫌悪の月曜日との憂鬱の格闘なのだ。

彼女はいま「仕事イヤイヤ期」らしく、細かなミスが続いてなんだか冴えないらしい。

私も繁忙期でやることは山積みだし、朝は相変わらず鬱っぽくなって固形物は一切喉を通らないのだが、日曜の夜は意外と元気である。

なぜなら、現実逃避しすぎてこの時間を日曜の夜とは信じられず、明日などと言ったものは永久に来ないとかたく信じているからだ。明日が来るなんて太陽が西から上るよりもあり得ない事。地面から雨が降るようなもの。明日は永久にやってこない。死者が蘇らないように。

マッチ売りの少女が極寒の雪の中、幸福な幻を見ている状況と似ている。事の深刻さに現実を受け入れていないため楽観的で、苦しむ彼女に ほよよ?と首をかしげる始末。

 

そういうわけで、彼女の煩悶と苦闘を冷静に見つめられている。

彼女が座椅子ソファの背をしばく。どす、どす、と重い音が案外響いて、下の階の住民に迷惑ではなかろうかと少し心配になる。

「ほんとうに憂鬱なの」と彼女は今にも泣きそうに言う。明日が来るくらいなら世界が滅んだ方がいいとさえ思っている。希望はいらないから絶望もいらない、と。

彼女の追いつめられる表情を見ていると私まで不安になってくる。

今は土曜の夜だと思い込んでいるけど、実は日曜の夜で、月曜日の不気味な足音はすぐそこに聴こえているのではないか?耳を澄ます。

ひた、ひた、ひた、と裸足の張り付く音に混じって、ざらりとした鱗の擦れる音。肉片をひきずる重い音も聴こえる。間違いない。月曜だ。

すぐそばに来ている。

 

現実逃避の魔法が解けた私はいてもたってもいられず、なんの音楽も口ずさまずにモンキーダンスを開始した。無声音によるモンキーダンスは悪魔祓いになると信じているのだ。

御手手を上下に動かし、御腰を落として左右に振り、じたばたとキッチンを徘徊する。徘徊できるほど広いキッチンではない。冷蔵庫を開けたり閉めたりする。

ひじきが冷えていた。悲劇的だ。

 

しかし思わぬ喜劇がここにあり。

「悲しくなってきた」そう言いながらも恋人は私を見て、座椅子に顔をうずめ、ひとしきり笑ったのだ。

私も踊りの効果あって心が落ち着いてきた。いや、彼女が笑ってくれたから、魔が祓われたのだろう。

そうだ、ブログを書こう、と前向きな気持ちにさえなってきた。

 

彼女は風呂に入り、私はブログエディタを開いた。なにを書こうかな。迷いながらもタイピングをはじめる。月曜の朝に読んでちょっと笑えるものがいいな、なんて思いながら。

 

『男はつらいよ』を初めてちゃんと観る

マプラに『男はつらいよ』の第一作が入っていたので観てみる。

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アマプラは映画開始時に画面左上に年齢対象が表示される。

男はつらいよ』は、

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G評価で「薬物使用、暴力」だった。

G評価は「ジジイくらい物わかりのある年齢になれば問題ない」と私は解釈している。

男はつらいよ』ってそういう映画だったっけ?

小学生のころうっすら見た記憶のある場面を思い出そうとするが、それは食卓で、なにか会話で、とぼやけた印象しか浮かばず、「寅さん」を高度に抽象化した雰囲気だけが像も結ばず靄になる。

私は「寅さん」をちゃんと観たことがないのだ。

それにも関わらず、柴又とか、フーテンの寅とか、向後万端(きょうこうばんたん)とか、『男はつらいよ』にまつわるワードや雰囲気は知っているのは、周囲の大人たち(昭和生まれ)の中に寅さんが深く根付いているからなのだろう。この映画はかつて国民的な人気シリーズだったのだ。

 

────────

 

寅さんはテキ屋で全国を放浪している様子。故郷の柴又には20年くらい帰っていないらしい。それがなぜ急に帰ってきたのかというと、「桜が咲くころに故郷を思い出すから」がたぶん理由だ。

なんだそれ。

じゃあ毎年帰って来いよ。

 

ところで、テキ屋商売とは今どき無形文化財に指定されてもいいくらい見かけない。

映画冒頭で渡し舟が登場したり、当時の国鉄の駅構内の様子や、服飾、生活様式が、当然だけど現代とは異なっている。

言葉遣いも「昔だなぁ」とわかる。私たちの知らないところで言葉は常に変化しているのだ。たぶん、声帯の使い方のレベルで。

テキ屋や当時の生活様式は、令和の時代から見ると、「理解はできるけどもう見かけない昔のもの」になっていて、あと50年もしたら、江戸時代の生活を見るような感覚に近くなっていくんじゃないかと思う。(もちろんそれは私たちの今の生活だって、100年経てば同じことが言える)

「寅さん」は当時国民の大衆映画で、特別な教養や知識が無くても楽しめるものだったが、もうそろそろ当時の世相や言葉の意味や「テキ屋」商売について知識がなければすんなりとは理解できない時代になっていくだろう。

男はつらいよ』はちょうどその過渡期にあって、もうすぐ「歴史資料」になりかねないところに差し掛かっている。

 

寅さんは現代から見ても、おそらく当時の目からしても結構野蛮な人間で、対照的に妹の さくらは人間ができているというか、ほとんど聖母みたいな存在だ。

さくらみたいな、美しくて、朗らかで、優しく、だけど自分の意志も強く持っている、内面も外面も美しい人間は側にいてほしいけど、寅さんみたいな、はっきり言ってやくざ者はどこか遠くにいてほしい。

あらゆる配慮に欠け、自分勝手で、時には暴力をふるい(さくらを殴る)、気に入らないとどこかへ行ってしまう(第一作では二度故郷を離れる)。

暴言もすごくて、ちょっと今では考えられないようなことを言ったり(まぁ当時の倫理観なのだ)15分に一回は寅さんが暴れたりまくし立てたり物凄いので、耐性のない人には無理かもしれない。

映画の前半だけ観て寅さんを好きになる人はたぶんいない。

ヤバイ人だから。

「薬物使用、暴力」はあながち間違いじゃない。

なにが「男はつらいよ」だ。さくらの方がつらいだろ。

 

 

だけど、それでも寅さんを信じて最後まで観れたのは、冒頭のワンシーンがあったからだ。

寅さんが原っぱを歩いているとパターゴルフの球が寅さんの足元を転がってくる。ボールがカップに入りそうなところを、寅さんは親切心で拾ってやり、プレイヤーにポイと返して、へへ、と笑う。寅さんは「ボールを穴に入れるゲーム」を知らずに勘違いして、「穴に入りそうになったボールを危ないところで助けてやった」と満足している。

散文的な映画ではなく、詩的な映画だ。

すべてを説明しないけど、シーンや人物の表情や間の取り方と演出で、どういうことなのかわからせる、映画にしかできない芸術だ。

このワンシーンで、ああ、車 寅次郎は「そういう人」なのね、と了解し、彼を最後まで信じることができた。

 

このワンシーンの「説明なき説明」によって寅さんの巻き起こす騒動は彼の勘違いやある意味の世間知らずに端を発していて、寅さん自身は彼なりの善意と思いやり、彼なりの楽しさのつもりでやっている、ということがわかる。

だが、寅さんにヘイトが溜まらないかというと、そうでもない。ちゃんとヘイトは溜まる。

前半は特にヤバくて、さくらがただただ可哀相、っていうか さくらも さくらでどうしてそんな聖人なの?さくらもヤバイ人なの??って全然感情移入できない。

 

 

 

彼を魅力的に映すことができたのは、最後の失恋があったからだ。

 

寅さんは最後失恋をして、再び根無し草の西から東へ旅に出る。

結構惨めで可哀相な失恋だ。

本気の恋愛に敗れた寅さんは暴れるかと思いきや、しおらしくなって、旅に出る。舎弟にも「実家に帰って親孝行しなさい」などと言う。寅さんは一人になりたい。

ここで寅さんが私の心をぎゅっと掴んだ。一気に人物像が深くなった。と同時に「寅さんでも失恋をする」ことがある種の「許し」を与えている。

たぶん、恋愛が成就してウハウハしていたら私はこの作品を駄作と見做していただろう。

失恋したからこそ、寅さんを許せた。寅さんが魅力的になった。

ああ、寅さんは、素直なんだ。可哀相なんだ。

傍若無人な寅さんでも大失恋をするし、並の人かそれ以上に悲しむのだ。寅さんは遠いところにいる人ではなく、私と同じように悲しむ、すぐそばにいる人なのだ。

 

寅さんはどこまでも奔放で、すべてのことに素直で、100%の気持ちで喜んだり悲しんだりできる人間である。そんな姿を目にしているうちに愛しくなってくる。憎めなくなってくる。こうやって子どもみたいに、いや、子ども以上に素直であれたことって、私にはあっただろうか。

そうわかっているから、寅さんが失恋してそこに「許し」があるけれど「ザマアミロ」とは思えず、自然と感情移入していて、しんみりと悲しい。

 

寅さんの恋が成就したとき、この映画は本当の終りで、調べてみるとこれ以降どの作品でも寅さんは「失恋して旅に出る」終わり方をするらしい。

「失恋」が許しとなり、同調となり、寅さんと私たちをグッと近づけるからこそ、なのだろう。

 

────────

 

ここまで気持ちよく裏表のない人間はいまも昔もなかなかいない。

いつの時代であっても寅さんの存在は時代錯誤で、しかし普遍(不変)の人間的魅力を備えている。

観る機会は減ってしまうだろうし、歴史考証資料となっていく運命は避けられないだろうけど、作品として、そして寅さんという人物としての魅力はこれまでもこれからも変わらない。

 

 

基本的に喜劇で結構笑えたので、続きが視聴可能ならちょくちょく観よう。

ひとりぼっちの晩餐会

人が金曜の夜から土曜日曜に隣県の実家へ帰省するというので、私は喜んで、ああ、こっちの家事は全部やっとくからさ、義父さんと義母さんにもよろしく伝えといてよ、なあに、寂しくなんかないよたった2日間でしょうが、なんかあったらLINEしてね、ゆっくりしてきなね、うん、いってらっしゃい、と金曜の朝、彼女を送り出したかったのだが、実は前日の木曜日からすでに寂しくなっており、金曜の朝は寂しさ余って胃が痛く、若干の不機嫌ですらあった。

しかしまぁ、25歳の男がそんなことで喚いたってなにも可愛く無いので(むしろ醜いので)、金曜の朝は朗らかに送り出した。

 

 

金曜日は在宅勤務で、しかもシフトが遅い時間だったので、午前中は一人になった部屋をウロウロ彷徨った。

いつもと違う「独りになってしまった」静けさのようなものが満ちている。

恋人は夜には帰ってこない。その確定的な静けさがカーテンの裾やラグについた足跡やクローゼットの扉に張り付いている。ほっとくと自分の耳の底にまで静けさは張り付いて、寂しくてどうかしそうだったので、カーテンを開け、ラグに掃除機をかけ、クローゼットを開閉してみたりした。ときどきこうして部屋をかき混ぜておかないと、静けさは致死量に達してからじゃ遅い。

 

 

21時頃に仕事が終わった。

いつもだったら恋人が先に帰宅して夕食を作ってくれているのだけど、今日はいない。

今から自分で作ってもいいのだけど、どうも自分一人のためにこの時間から料理をするモチベーションがない。仕事ですらモチベーションが無かったのだ。「今日は仕事が終わっても恋人に会えない」こんな状態で料理ができるわけない。

近所のファミレスに行く。妄想をする。

私は独りで席に座り、ハンバーグ定食を注文する。料理が来るまでのあいだ、スマホでもいじっているだろう。料理が来る。食事中もスマホで動画でも観るだろう。

相手もいない、ただうら寂しい食事に何を思えばいいのかわからなくて、端末から情報を常に頭に入れて寂しさをかき消さなければならない。

そうやって食事をしている一人の私を俯瞰で想像する。ハンバーグ定食のデミグラスソースの教科書的な味わいを想像する。夜のファミレス特有の、時間の経った米のにおいを想像する。

窓際の席に座りつまらなさそうにフォークを動かしてファミレスの大衆主義的蛍光灯の明かりに照らされている私は外から見ると「孤独」そのものだろう。

嫌すぎる。

 

だけど空腹すぎる。

 

ので、ファミレスを回ったが、こういうご時世のこともあってどこも21時で営業終了していた。

 

 

結局、コンビニ弁当を買うより他なく、ついでにビールとワンカップと缶詰の焼き鳥を買い、晩酌とした。

しこたま飲んだ。

頭の中を蝕む空白を埋めるように。

缶ビールを飲み、ワンカップ(オオゼキ)と焼き鳥でキめて、ジンをぐびぐび飲んでいたら、金ローの『ハウルの動く城』が終わる頃にはぐでんぐでんになり、気を抜くと吐きそうになっていた。

愉快な気持ちの反面、恋人の部屋の静けさに思いを馳せるとバッタの大群のように吐き気が増惡し、たとえばトイレの薄暗いライトに照らされながら戻して痙攣する私の丸い背中を想像するとあまりにも惨めで、頭がグルグルなって、気付いたら眠りに落ちていた。

気絶。

 

もしも恋人が死んでしまったり、恋人と別れてしまったら、私はどうなってしまうのか?

怖い。

 

 

朝、ひどい喉の渇きで目を覚ました。

25の男がこんなことではよくない。私は独りでも快活に過ごすべきだ。精神的に恋人を拠り所としすぎている。自分で自分が怖い。

ぼやける頭を掻きながら、私は昨晩の晩餐会を反省した。

 

こうして、恋人のいない土日がはじまった。

 

三年目の真実

会人三年目になった。

三年目の初日は怒濤であった。

人事異動でさまざな問い合わせが入り、自分のも含めていくつかの作業ミスが発覚し、フォローし合い、私個人で抱える問題が退勤間際に発覚したりと、悪い意味でお腹いっぱいの一日だった。

 

三年目になった。

この一年は、転職するかどうか、ほんとうにこれから先の人生どうしたいのかよく考えなきゃいけない。うすうす感じていたものをはっきりさせなくてはならない。

これが自分の人生であることを認めて、自分だけじゃなくてパートナーの為にも将来を設計しなくてはならないし、充実した気持ちを持ちたいし、さまざまなバランスを考えてできるだけ犠牲を押さえ、自分にとって大切なものはなにか、さまざまなことをはっきりさせて、ほんとうに大人にならなければならないのだ。

 

いまの仕事は本当につまらなくて、これに一生捧げるのはなんか違う気がする、と矮小な存在であるにもかかわらず生意気にも違和感を抱いている。

「でも私だって、いまの仕事の分野に興味があるわけじゃないし、たとえ転職したとしてもその仕事が楽しいとは限らないよ。私は転職して職場環境は良くなったけど、楽しいわけじゃない」と恋人は言う。

そう聞くと、じゃあ人生なんてそんなもんかもしれないな、と諦めがつく。

いや、諦めがつくのではなく、「諦めることを善しとしてもいい」ふうに思えるのだ。

でもそれでいいのか?

 

 

今の仕事を選んだのは、就活生当時、大嫌いな父の会社を継がされそうになっていたからだ。

父の仕事は貿易と営業と卸だったので、それとはまったく異なる分野を就職では選んだ。とにかく反骨して継がない意志を見せ、「あなたには従わない」アピールをしていたのだ。会社を継がない(継げない)のならなんだってよかったし、反骨にはやる気に満ちていた。

そういうモチベーションだから、父が今も生きていれば、この分野でもモリモリやる気が湧いていただろう。

それがまさか、就職の一か月前に、酔っぱらって階段から落ちて死ぬなんて思わなかったんだ。

 

「反骨」のモチベーションがなくなってから、就職した二年前の最初の日から、私はやる気を失っていた。反骨すべき対象はとっくに骨になり、田舎の墓に埋まってしまった。もろくてくすんだ骨だった。

 

 

そういうモチベーションで仕事を選んではいけないし、結局のところ、父親のせいにしたり、良くも悪くも(9割悪い)父親という存在ありきで行動し、それがダラダラ続いているのが情けない。

もうこういうのやめたい。

父は死んでしまった。死んだ父をどうやって殺せばいいのだろう。

 

 

 

私はここからの一年ではっきりさせなくてはならない、と思う。

置かれた場所で咲くのか、歩く花になるのか。

 

 

 

 

究極は、働かずして優雅に暮らしたい。駐車場などを経営したい。そう思うのもほどほどにしなければならない。

今後について パート2

週、「ブログは今後あまり書かないことにする」といった旨の記事を書いたけど、

arimeiro.hatenablog.com


あまり書かないでいたら日常の歯車が狂い世界線が倫理を失ってしまったようで、恋人は鶏肉を生で食べるし、冷蔵庫の芋から根が伸びて野菜室を蝕んでいるし、隣人の部屋から夜な夜なノコギリで骨を断つ音が聞こえるし、夢見が悪くなったので、ブログを書く生活に戻した。

多分、先週は仕事がきつくて(精神的に)まいっていたし、書くことが本当に無くて苦し紛れ独り言をしたのだろう。

 

ブログを書くのは趣味で、習慣づいてしまっているから、書かない日があると「ああ、悪いことしてる」と気持ちが悪くなる。歯を磨かないで寝てしまうような居心地の悪さだ。習慣を疎かにすると歯車が狂いはじめ、やがて虫歯になったり野菜室が奈落になってしまう。

受験生(浪人生)のとき一日のルーティンがあって、ほとんど毎日同じ時間に同じことを繰り返す生活をしていたが、そのどれかがトラブルや突然の予定で欠落してしまうと、セーターの前後を間違えて着たときのような心地悪さを感じて、罪悪感にも苛まれて「また落ちる」なんて恐怖に眠気を奪われたりもした。

ブログを何日も連続で書かないでいた日、あの頃のことを思い出した。

習慣は強いけど怖い。

 

 

一日に書く文量は決めていないが、おおよそ1000~2000字の間である。

ふつうに1000文字書くと一時間くらいブログに時間を奪われるし、自分で読んでいても冗長だなと思うので、600~800、長くても1000でまとめるのがいいかもしれない。

普段の生活で会話する相手と言えば恋人か母親、しかもだいたいは相手の話を聞いているだけの案山子だから、ブログでは饒舌になってしまうのかもしれない。

そんな悲しいことがあるのか。

 

 

ま、理由や決意はいろいろあるけど、今後もブログは続けていこうと思う。私なりにブログを書いて読むのは趣味なのだ。

10年後、20年後に自分が読み返したときに楽しむためにも、文章を残したい。

見たままの真実、感じたことがすべて

にしたものをそのまま受け入れる姿勢は素直でよろしいけれど、ときには疑いを持つ心意気や、考えを察するある種の「読解力」がないと、残念だけどこの世界ではうまくやっていけない。

ひどい詐欺に遭うかもしれないし、うまく立ち回れず混乱に陥るかもしれない。どの世界でもどの時代でもそうだが、悪意や失念は思いもかけないところから腕を伸ばしてあなたの足を厚い泥の中へ引きずり込むだろう。

だから誠意を持ちつつも、いろいろ考えたり、「なぜ」の電球を常に心の内に灯らせておかねばならない。

 

 

その点、小説は良い。

書いてある文字こそが真実なのだ。

基本的には裏を読んだり疑いを持たなくても充分楽しめる。

 

もちろん、文章として表れてきていない部分を考察したり、行間を読んだり、作者の半生を踏まえて何をテーマとしているか考察、メタファーを分析、論文として考えをまとめて作品を再構築するような楽しみ方もあるし、学生時代はひたすらそんなことを図書館に篭ってやり、他人の発表を見てきた。

そういった楽しみ方をするクセがつくと苦労する。

何を読んでも、いや、文章に限らず映像でも音楽でも、どういう意図があってこの単語を繰り返すのだろうとか、この比喩は何の表象なのだろうとか、いちいち考えてしまって疲れる。一歩一歩立ち止まり、意味を考え、考察しないと、読み進めていくうちに自分が道を踏み外して作品から逸れたところへ行ってしまうのではないかと不安になる。実はこうしているとき、作品から離れつつあるのかもしれない。

 

疲れるので、私はモードによって作品の楽しみ方を切り替えてる。

 

めちゃくちゃ考察したいときは、ひとつひとつセンテンスを拾い上げて、参考資料を参照してみたり、文献を漁ってみたり、関連資料を探したりする。ひとの考察ブログを覗くこともある。

そうでないとき、つまり、作品を作品として楽しみたいときは、作品を見たまま、あるがままに受け止める。

先日『シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 』を観てきたときもモードを「らくらく」に切り替えて、あらゆる考察を排除したことで、混乱せずにあるがままを受け止めて愉しめた。

 

 

村上春樹の小説はメタファーに富み、はっきり言って意味不明な状態に陥ることがよくある。ファンタジーなのかわからないけど、不可解だったり不合理なことがよく起こるので、『1Q84』とか『ねじまき鳥』を最初に読んだ人は驚くことだろう。

突然妻が失踪したり、月がふたつになったり、井戸の底に潜ったりする。

宮沢賢治の童話はあらゆる暗示に富んでいて、時には教訓もあるけれど、ひとつひとつの出来事を解体してみても、底にあるのは賢治の詩的カオスである。

 

小説は、読んだまま、見たままの世界を受け止めて良い。

なぜなら、そこに書いてある「文章」こそが小説世界ではリアルで、事実で、真実だから(ゆえに小説は虚構が綴られていても嘘は書けない)。

 

読んだままの感想で良い。評論じみてなにか考察しなきゃ悪いなんてことはまったくない。

おもしろかったか、つまらなかったか、よくわからなかったか、そんなことでいい。

 

「メタファーの暗示するところはよくわからないけれど、文章の流れが綺麗だったし、表現はユーモラスだった。結局どうなってしまうのか、うまく説明はできないけれど、読後、心の中になにか残るものがあった。あたたかい気持ちになった」

そんな漠然とした感想で良い。

文章は書かれた文字が真実で、読書はあなたの心に残った印象が真実なのだから。

 

小説読書の目的は必ずしも「理解すること」ではないと思うのだ。

見たままの真実に感じたリアルを面白がる、原初的な物語の楽しみ方が、今はしっくりきている。

切れない包丁は喉を潰した鶯みたいに自信を喪失して見える

が家の包丁は、クソである。

それは引っ越しの際に急ぎ買ったありあわせの包丁で、最低ランクのひとつ上のランク、要するに「二番目に最低」な包丁、最低ランクには手を伸ばさない変にプライドの高い貧乏性が買ってしまいがちな安価で工場生産的でコンビニエンスストア的な包丁である。

どこからどう見ても包丁の姿をしているが、使っていくうちに「包丁ではないかもしれない」と疑念を抱かせる切れ味、トマトを切ろうとすればいつも形が崩れ、魚には切れ目を入れられず、りんごの断面は歪んでいる。「切る」というよりも「分かつ」とか「断つ」とか「殴りちぎる」のほうがこの包丁に与える動詞としては適している。刃先に狂いしかない。

 

切れない包丁は喉を潰したウグイスみたいに自信を喪失して見える。

ぐちゃぐちゃになったトマトの傍らで遣る瀬無く黄昏れられると、こちらの気分まで夕暮れに沈みそうになる。サバの皮膚に敗北した包丁を手にすると、インポテンツになったらこんな気持ちになるんだろうな、って自分のことのように自尊心が傷つけられる。

彼は何も言わず、結果だけを真実と目にして、ひたすら自分を責めている。

どうにかしてやらねばならない。

 

 

研ぐことにした。

砥石(といし)を買い、インターネッツで研ぎ方を調べ、いくつか動画を参考にして研いでみた。

 

しゃりしゃりと砥石の上を滑る刃先から自信回復の音がする。

素人にはこれで研げているのかよくわからないしひたすらに退屈だが、包丁的には気分のよさそうな声で歌っているのでまぁいいか、としゃりしゃりしているうちに、なんだか自律神経が整っていくような「丁寧な生活をしている」充実感が湧いてきて、そのうち穏やかな気分になってきた。

包丁を研ぐ。なんて文化的な生活。

切れ味に期待感が高まる。

いくつかの動画では研いだ後の試し切りでキュウリやトマトが面白いようにすぱすぱ切れていたが、この包丁もそうなるだろうか。

いつしか私と包丁は同じ夢を見ていた。

 

関係ないけど、包丁関連の動画の中ではこの「包丁売り」があらゆる意味でいちばん面白いので観てください。

youtu.be

 

目の細かい砥石で仕上げたら、新聞紙を丸めたものを切って「バリ」を削る。がしがしがし、と荒い部分が削れていく。こうして研ぎは終わりである。

 

よく拭いて、ドキドキしながら試しにキュウリに刃をあてると、ははは、笑っちゃうくらい全然切れなかった。

キュウリですら断面が歪んだ。むしろ切れ味は悪くなったのではないか。

さっきまでの自信回復の音はなんだったのか。

騙したのか。おれを。

 

包丁を仕舞って私はベッドに横になり、豚を解体する動画を見漁った。豚の解体は良い。ナイフが気持ちよく豚を真っ二つにするから。

 

 

私の腕にも問題はあるが、あるいは砥石にも問題があるかもしれない。

100均で二番目に安いものを買ったのである。

なぜ二番目かというと、これはこの包丁を選んだ理由と同じで、貧乏性のくせにプライドが高くて最安最低のものを心よしとはしなかったからで、せめて最低は避けよう、という卑しい魂胆が「二番目に最低」を選ばせたのだ。

結局安かろう悪かろうで、ケチると結果的には余計に費用がかさむことが珍しくない。

 

 

偉くなって会社の経費で領収書を切れたら高価な包丁買おうかな。

そんなことしたら馘(くび)を斬られるかな。

ははは。