蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

猫の気配

家の母と電話していると、スピーカーの背後でちりん、ちりん、と涼し気な鈴の音が鳴った。

実家の猫の首輪の音である。

「まだゴハンあげてないから、ウロウロしてんのよ」と母は笑った。

猫がメシ欲しさにウロウロして睨みを利かせている姿を容易に想像できた。やわらかい肉球で歩くから、猫は足音がない。だけど首輪の鈴が鳴るから忍び寄って来てもわかってしまう。

電話の向こうでニャーと鳴く声がした。

必死に空腹を訴えている。

はやくゴハンをあげてやってくれ、と言って電話を切った。

それにしても猫は「気配」だけで可愛いものだ。

 

 

また別の日、仕事中のことだ。

ユーザーから返却された機器に猫のシールが貼ってあった。

ちょっとモコモコした立体的なシールが十枚くらいそこかしこに貼られていた。リース品なのでこういうのは貼ってほしくないし、剥がしたり綺麗にするにはそれなりに工数がかかるのでやめてほしいのだが、可愛いので許した。

キーボードの隙間をブラシで掃除していると、わんさか細かい毛が出てくる。

それはおぞましい光景に違いなく、はじめ妖怪の仕業かと身を引いたが、よく観察すれば白と黒の混じった細い毛は猫のものに違いなかった。

きっと、自宅勤務中に猫がパソコンの上に乗ったり、ご主人の仕事を邪魔したりしたのだな、と想像できる。

猫はその「気配」によって可愛さを想起させるのが得意だ。

 

 

我が家の周りには野良猫が多い。

昼夜問わず道路を横切る姿や軒で丸くなる姿を見られる。

朝、近所の大きな家の広い芝生のよく日が当たるところで、猫たちが5~7匹輪になって会議を開いている光景を拝める。いったいなにを報告しているのか人類は永劫に知る由も無いが、きっと猫たちなりに世界情勢を憂いているのだろう。

会議のない日にもその庭に目をやると、猫たちが輪になっていた光景が脳裏に浮かんで微笑ましくなる。

私もいつか庭付きの家を持つことができたら、猫の会議が開かれるような心地よいものも目指したい。(そのころには野良猫も絶滅しているかもしれないし、猫たちにとってはそのほうがいいかもしれない)

 

 

猫は気配だけで可愛い。

【考案】洗濯機で作れる料理【ゆる募】

の平日4日間のブログでは、すべて洗濯物の話をした。

 

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ここまできたら最終日の今日も洗濯物の話をしたいが、さすがにもう書くことがない。

書くことが無いから洗濯物の話をしていたのに、洗濯物の話もすることがなくなった。

もうなにもない。臭いバスタオル以外何もない。

洗濯物の話を続けたせいか、日に日にアクセス数が減っていく。

こんなこと続けるべきではないのだ。

 

────────

 

洗濯機が洗濯するのは衣服だけではない。

自分自身、洗濯機自身も洗う。

何か月かに一回、漂白剤を投入して「洗濯槽」を洗う。

このとき漂白剤をかなり使うので「コスパ悪ぅ~」と毎回萎える気持ちだが、洗濯槽のなかにはカビやさらに恐ろしい菌、バクテリアやペストがはびこっているというので、強力な薬品で殺菌せねばならない。

菌まみれの洗濯槽で洗濯したら意味が無い。

 

実際に洗濯槽から下駄箱のような悪臭が立ちこめると、こういったところが諸悪の根源になるんだよな、と実践的な理解を得る。こういう「惡」を放っておくと、ゆくゆくは我が家にもナチス的な歴史的惨劇が生まれるんだろうな。そう思う。

洗濯槽に水をドバドバ入れて、漂白剤をこれでもかと注ぎ、渦巻いて醜悪なケガレを祓う様子を見守っていると、丁寧な暮らしをしている自信が湧いてきて、家庭を守れている実感が湧いてくる。

家庭は諸悪の根源だ。しかし、同時に、諸幸福の根源でもある。穢れをそそぎ、笑顔を絶やさぬことで明るい未来はこちらへ歩み寄ってくるのである。

人は皆、洗濯槽を掃除すべきだ。

 

 

ところで、

洗濯槽を掃除すべきだ、と言っておいてなんだけど、いつか新品の洗濯機で大量のカレーを作ってみたい。

でも洗濯機は火にかけられないからカレーを作れない。カレーどころか、一度火にくべる料理はすべて無理である。

 

では、どんな料理なら洗濯機で調理可能だろうか?

 

火を使わず、ドでかい規模で調理した方がおもしろいもの。

条件は「洗濯機のみを使うこと」にしよう。

たとえば鍋で煮てから洗濯機に移す、というのはナシ。お玉や菜箸なんかは使ってもいいけど、鍋、フライパンはナシ。

どうせなら洗濯機の機能も使える料理がいい。脱水とか、遠心力を使う料理がいい。「乾燥」してもいい。エコモードがあるならそれを使うのも手だろう。

 

…………。

 

 

 

 

フルーチェ

 

 

 

どうでしょう。

皆さんも思いついたらコメント欄かTwitterで教えてくださいね。

 

 

 

 

 

 

(さすがに書くことが無さすぎた)

 

夏のはじまりはセツナ刑

日は朝からがんがんに晴れていて、たぶん完全に梅雨明けしたっぽかったが、聞くところによるとまだ梅雨入りもしていないらしい。

 

本格的に夏がはじまりそうだけど、まだ夏じゃないとわかるのは、なんとなく夕方の匂いが夏になりきれていなかったり、夜風が硬く涼しくて、モワリと膨らむ感じがしないからだ。本当の夏の夕方はいつの間にか忘れていた子供の頃の記憶みたいにセツナい香りがするし、熱帯夜は夢よりも悪夢的な暑さになるものだ。

 

夏に向けて、扇風機を出した。

網戸にして扇風機を回しておけば、今くらいの季節なら快適に過ごせる。

 

扇風機は組み立てるたびに「こんなに難しかったっけ?」と思う。もう10年くらい毎年組み立てているし、機種が変わってもだいたい工程は同じなのに、毎年難儀する。

網が前後でうまく噛み合わず、ハマったと思ったら別の個所に歪みが生じ、不完全な円になって明らかに負荷がかかっている。

「もういいよ。ハマったんだもん。使えるよ」と彼女は言ったが、私はこれをよしとはしなかった。

この歪みは必ずいつか我々に痛手を負わせることになる。確かな予感だ。

歪んでいて良いはずがないのだ。骨盤も政治も建築も、歪んでいればいつか崩れる。歪みが良いとされているのはエレキギターくらいだ。

 

なんとかしてうまいこと組み合わせ、無事扇風機を完成させた。

起動してゆるやかな風が吹くと、たしかに夏の香りがした。

これからどんどん晴れが続いて、扇風機も活躍することだろう。

 

 

夏は快晴の季節だ。満点の晴れだから、どうしても洗濯物が捗る

 

 

天候に恵まれなかった月曜日に洗濯した布巾・タオル類が生乾きになった結果、履き古した革靴みたいな悪臭を放つ布に変わり果てたことに過度のストレスを受けていた(なぜ私たちは一日の疲れをシャワーで洗い流した後に腐った臓物みたいなニオイのするタオルで体を拭かねばならないのだろう)ので、夏的な空で快晴となった水曜日、再度洗濯し直してかんかん照りのもと広げて干し、日光消毒の刑に処した。

私は偉いので、仕事に行く前に洗濯物を干す。めちゃくちゃ偉い。

 

帰宅したらピンチハンガーがベランダに落下してぐちゃぐちゃになっていた。

天罰?

幸いにも泥などで汚れてはいなかったが、心理的瑕疵(かし)は免れない。

私は地面(ベランダ)に落ちたバスタオルで身体を拭わねばならないのだ。それは拭うというよりも、なにか目に見えないケガレをこすりつけるに等しい。

汚れてはいないけど一度地面に落ちたもので、しかもいったいどれだけの時間落ちていたのか計り知れないではないか。

 

でも仕方がない。

我が家のバスタオルはひとり二枚しかないから、次の洗濯まではこれを使うしかない。小市民はつらい、バスタオルも満足に使えないのだ。

 

 

ついでに、日光消毒の刑に処したはずなのに、バスタオルからは苔生したドブ川のニオイがした。

天罰?

「ファブリーズ(無香タイプ)猛噴射の刑」に処す。

 

なにが快晴だ、夏空だ。洗濯乾燥機しか勝たんのだよ。

なにもおもしろくない。

 

 

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こうなったら明日も洗濯物の話してやる。

「他人ンちのベランダをジッと見ている20代男性」の目撃証言

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日連続で洗濯物の話を書いたので今日は違うものを書こうと日中考えていたが、いざパソコンを開いてみれば書くことなんてなにも思い浮かばず、ふと鼻にニオイがかかった生乾きのバスタオルに意識が向かい、ああ、今日も洗濯の話をするしかないと覚悟を決めた。

洗濯以外に選択の余地がないらしい。

まぁ、三本連続で書けばなにか人生に光明が見えることだってあるだろう。

 

 

 

洗濯をしようという日に雨が降ったり曇っていると心までグズついてくるが、隣国まで見渡せそうなほど晴れていると嬉しくて、はっきり言って面倒くさい洗濯にもが腕が鳴るというものだ。

洗濯をする日には気持ちよく晴れていなければならない。泳ぐと決めた日にはプールが冷たい水で満たされているべきだし、出航の日には良い風が吹いているべきなのと同じように。

だけど私たちは神ではないから、天気を操るのではなく、洗濯物の量を調整したり、あるいは諦めて曇り空の下に干したり、夜に干したりして妥協する。空は洗濯物を乾かすために晴れるわけではないし、雨は必要だから降るのだ。責めることはできない。

 

我が家でも洗濯量を調整したり、週間天気を見て洗濯日を決めて調整している。だから週間天気が外れるとムカついて、天に向かって唾を吐き、気象予報士を口汚く罵る。

どの家庭もそのように調整したり工夫しているのだろう。外した気象予報士を野良犬扱いするのだろう。

 

向かいの家もおそらくそのような「工夫」をしているのだろうと思われる。

そのお宅は「数日間干しっぱなし」という「工夫」を実践している。

 

うちのベランダから向かいの家のベランダが望める。あまり良くないが、目に入るので仕方がない。洗濯物も丸見えである。夫婦と小さめの子どもがいる平凡な家庭だ(←洗濯物の内容から類推しているので本当に気色が悪い)。

そのお宅は私の記憶する限りでは日曜から洗濯物が干しっぱなしである。

土曜日は見ていなかったので知らないが、少なくとも日曜日に干してあった衣類と今朝目にした衣類はまったく同じで、それは月曜の朝も干してあり、要するに干しっぱなしなのだ。

日曜は雨が降っていたし、月曜日も酷い曇りだった。火曜日は晴れた。

今、これを書いている火曜日の夜、確認したところ、やはり干してある。

 

留守にしていたら家の電気は消えているはずだ。

しかしその家は夜の住宅街に、あたたかい家庭の明かりを灯しているではないか。

 

いったいどういうことなのか理解に苦しむ。

雨に濡れたら汚いのでもう一度洗った方がいい。それを気にしないのなら干しっぱなしでもいいけれど、火曜日は晴天で久しぶりの洗濯日和だったのだからすべて乾いていてしかるべきだ。家に明かりが点いているということは在宅のはず。時間は既に23時を回っている。

なにか、完璧にではないけれど、論理に合わない。おかしいところがある。

 

あるいはなにか ──考えたくもない凶悪な── 事件に巻き込まれていやしないだろうか……と考えて背中が寒くなる。

 

 

一体どういうことなのかこれからも注視していきたいが、「他人ンちのベランダをジッと見ている20代男性」の目撃証言の方が事件性は高まるので、ほどほどにしよう。

 

また洗濯物の話してる

な予感はしていた。

天気/曇り。無風。湿度/高。空気は暖かい。

午後から快晴の予定。

我が亭のベランダ南向きだが、直射日光が当たるのは午前中まで。つまり午後は日陰になる。

嫌な予感は充分にしていた。それは経験に基づく確かな予感だ。いや、予感というよりも ────

「この天気じゃ洗濯物は乾かないな。乾いたとしても生乾きのにおいがつく」

──── 予言にちかい。

 

 

月曜日は溜めまくった衣類を恋人が洗濯してくれた。

平日の洗濯はすべて私がやっているのだが、月曜日恋人は有給休暇を取っていて、朝から私の代わりに朝食を作ってくれたり、洗濯物を干してくれたのだ。

洗濯物を干してくれた手前、非常に心苦しかったが、私は経験に基づく先の予言を彼女に与えた。

「でも午後から晴れるって」私の予言を信じず、彼女は言った。私は彼女に反駁する。

「午後から晴れても関係ないんだ。生乾きの時間が長ければ、あとでいくら乾いた空気になろうが、暑くなろうが、関係ないんだ。なぜなら『すでに』生乾きなのだから。時間は取り戻せないのだから」

「じゃあどうすればいいの?」

「どうすることもできない」

「はぁ~???言うだけかよ」

私の言葉はあくまで予言であって、知啓や啓示ではない。私は「覚悟をしておきなさい」と警鐘を鳴らすに過ぎないのだ。

「まぁ、午後から晴れるし」とそれでも彼女は言う。

何度も言うが、午後から晴れても意味はない。まず、午後、わが亭のベランダは日陰になるのだから。

 

予言は当たってほしくない。悪い予言は外れた方が良い。

予言者は自身の能力の矜持と予言した未来への絶望、相反する二つの感情に挟まれて身動きが取れなくなる。

だがまぁ、それは世界が滅ぶとか誰かが死ぬみたいな規模の大きい話であって、洗濯物が乾くか乾かないかなんてミクロなレベルだったら、こんな予言は外れた方が良いに決まっている。

予言者たる私は「洗濯ものは臭くなる」と予言しつつも内心では「ゆーて乾くやろ。乾いてほしい。乾いて」と願っていた。

 

 

夜、洗濯物を取り込んで、私の予言が(悲しいことに)的中したことを知った。

バスタオルや布巾が生臭いのだ。3年くらい洗われていない犬みたいな においがする。排水溝で昆布を煮〆たような においがする。

「はぁ~~~~~????」

恋人は深いため息をつき、そしてせらせらと少しく笑って、ファブリーズを猛噴射した。闇落ちした形相であった。

でも闇落ちする気持ちもわかる。洗濯ってけっこう手間取って大変だし、畳んだりアイロンもかけるとなると平気で料理するくらいの時間がかかってくる。その労力がすべてパァになるのだ。日照不足、ただそれだけのことで。

 

またコインランドリーに行って、乾燥にかけなければならない。

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やれやれ。

 

うーん、今日のブログも、感想に欠けるな。(乾燥にかけてる)

 

雨と疲弊とコインランドリー

「そろそろ布団をコインランドリーに持って行きたいの」雨の日に限って恋人は面倒な話を持ち出す。

近所のコインランドリーまでは徒歩で10分ほどかかり、急な坂道を登り下りしなければならない。布団を持って、しかも雨の中歩くというのは、これは結構な労働である。

「やれやれ」と私は言った。

しかし、そろそろ布団を洗いたい、という意見には大賛成だった。

私はまだ冬用の羽毛布団を使っていたので夜は寝苦しくて汗をかき、夜中に目を覚ますことしばしばで、いいかげん布団を夏用にしなっきゃなぁと毎晩、思っていたところだ。

もう、夏。

さらさらした夏用布団を洗って、気持ちよく眠りたいではないか。

「面倒だが、行くか」

私たちは日曜の朝、朝食を食べてすぐに準備した。

 

コインランドリーへ用事があると、毎回恋人と諍いになる。

「コインランドリーへ行くついでに買い出しを済ませたい」思いが二人にはあって、その手段(順序)の食い違いで意見が衝突する。

布団二組をコインランドリーの「洗濯・乾燥」に預けた後、近所のスーパー2軒に寄り、その足で布団を回収する、というかぐや姫なみの難題を恋人は提案するが、そんなことは不可能だ。

「二人分の布団を持ったうえで、一週間分の布団を持つなんて無理だよ。よっぽど頑張れば不可能じゃないかもしれないだろうけど、僕はごめんだね。あるいは君に腕が6本生えてたら話は変わって来るけど、僕たちは二人で腕が四本しかない。この星の多くのカップルはそうなんだ」

「なにを言ってるの?」

私の作戦は次のとおり。

布団を「洗濯・乾燥」に預けてその足で買い出しへ行く。いったん買い出しの荷物を家に置いてから、コインランドリーへ再び行く。

家とコインランドリーを二往復することになるが、仕方がない。

とりあえず健全なこの作戦で我々は任務に取り掛かった。

 

しかし、コインランドリーに着いてさっそく作戦は破綻する。

「洗濯・乾燥」のドラム式が空いておらず、「洗濯」のみか「乾燥」のみの機械しか空いてなかったのだ。

こうなると作戦は変わってくる。

 

まず「洗濯」をする(50分)

   ↓

買い出し

   ↓

「洗濯」が終わったら「乾燥」しにコインランドリーへ戻る

   ↓

「乾燥」の間に家に戻り、買い出しの荷物を置いてくる

   ↓

「乾燥」が終わった布団を取りに行く

 

面倒くさいが、こうするより他はない。

あとは簡単な諍いだ。

「わたしが布団乾燥回しに行くからあなたは買い出しの荷物を家に置いて行ってよ」

「そんなの君が二度手間だろう。乾燥終わるまで待ってるつもりか?」

「人が沢山来るコインランドリーで女一人なんて不安なものもないわよ。やっぱりわたしが家に戻るからあなたはコインランドリーに行って……」

「って、まぁ別にいいけどさ、買い出しの荷物持てるの?一人で。かなりの重さあるよ」

「じゃあどうしろというの?」

「効率は悪いけど、ぜんぶ二人でやるんだ。二人で行動しよう。すべての恩恵は二人のものだけど、すべての痛みも僕たち二人のものなんだ」

「車が……車が欲しい……車さえあれば……」

 

いつもこのような言い合いになって、結論は「車が欲しい」に帰結する。

これだけのために車を買うわけにはいかないが、まったく同じ意見だ。車が欲しい。

あるいはドラム式の洗濯機を導入すべきか……なんにせよ金が欲しい……

 

無いものの話をしてもしかたがない。

 

結局、我々には車が無いので、コインランドリーとスーパー、家の間を徒歩で往復し、重い荷物を持って急な坂を登ったり下りたりし、終わったらへとへとになって、いい運動になったけど、いろいろと疲れてしまった。

 

洗いたての新品みたいな布団で ふて寝した。

最初の自炊

々にそうめんを茹でた。

久々に、というのも当然だ。そうめんは夏にしか茹でない。

夏が来た、ということだ。

 

麺つゆの器も昨夏以来の出番。寝起きの埃かぶった表面をよく洗って目を覚ましてやる。起きろ。もう夏だ。

この日は性格の悪い雨が降っていたけど、風は生温かくて肌に纏わりつき、寒さは感じなかった。雨が降っても寒くない。雨の温度が夏を知らせる。

そうめんはピーカン照りのクソ暑い日にも美味しいけれど、意外と雨のうっとうしい日にも美味しい。

喉を抜ける爽快感と冷たさが、全身を蝕む湿気と うだるような熱を追い払う。ちゅるりと飲みこめば、夏にしか味わえない「涼しさ」に浸っている。

 

そうめんの付け合わせに鶏モモ肉のソテーを作った。これはネギソースを絡めるソテーで、揚げてない油淋鶏をイメージしてほしい。

モモ肉を解凍して開き、熱したフライパンでカリっとするまで焼き上げる。

ネギを刻み、醤油や酢と混ぜ、豆板醤や生姜も入れる。

暑くて食べたい気分じゃなくても、酸味と辛味が食欲増進させる夏にぴったりの料理だ。

 

実はこの鶏もも肉のソテーと そうめんは昨年夏に恋人と同棲を始めて、はじめて自炊した食事だ。

はやいものであと1か月半ほどで、同棲をはじめて一年になる。

あまり逞しいとは言えないかもしれないけど、それでも二人で稼いだお金を使って、二人なりに生活を営み、人生を歩んでいる。いまのアパートが居場所になり、居心地の良さを感じ、なんていうか、自分の場所、って思う。すっかり生活に馴染み、人生の一部になった。

へんな感想に見えるかもしれないけど、こうした営みにふと客観的になって「ああ、生活しているんだな」と言葉にしてしまえばそれだけの、しかしそれ以上の、感慨を抱くのだ。

そうめんと鶏肉のモモ肉のソテーを初めて作った夜はぜんぜん食器も無くて、段ボールとかまだ置きっぱなしで、生活に馴れていなくて、先行きが不安だった。

でも、美味しかった。

 

 

恋人が帰宅したので そうめんをザルからあげて、皿を並べた。

「あ、この組み合わせ、引っ越して最初に作ったやつじゃん!なんかエモいな~」

彼女がそれを覚えていたのが、なんだか嬉しかった。

 

 

今週のお題「そうめん」