蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

虚構症

んでもかんでもブログに書いているな、と時々反省する。

思ったことやその日あった出来事、読んだ本のこと、観た映画のこと、手当たり次第に書いている。こうして書いていることも今日考えたことだ。

我ながら節操なく見える。

ブログになにを書くかは常にネタ切れの状態であり、前日から書くことが決まっているときは嬉しくてすぐにパソコンに向かうほどで、大抵はモニターの前でウンウン唸ってなんとか話題を捻り出しているのできわめて些細な日常の機微をあれもこれも書くことになるのだ。

なんでもかんでも書いちゃって節操がない。

 

日常的なことは言葉を濁したり脚色したり(こういうのを演出と呼ぶ)しているので事実に忠実ではない部分が多々ある。これが私にはまたひとつネックになる。

誰かの言葉を思い出す。エッセイは嘘まみれである。小説は真実しか書かない。

現実をありのままに書いてしまうとどうしてもオチが弱かったりするし、また会話ではこう言ってくれた方がわかりやすいな、と書き直したり、もっと上手いこと言えるな、と話の緩急を演出的につけたりする。

そうした演出的虚構は「エッセイ」とか「ブログ」の名前を借りてさも現実であるかのように見せる。書いていて、卑怯だと思う。

私はできるだけ誠実でありたい。

息を吐くように虚構を重ねるのに疲れてしまうこともある。読者にそうとは知れず嘘をついているのが心苦しい。誰だって嘘をついて生きたいわけじゃないのだ。申し訳なく思っている。こうして書いていることが虚構ですらある。

 

じゃあもうブログ書くのやめたら?と声が聞こえてくるようだ。(ほんとうは聞こえていません)

本当に節操のなさを恥じていて、嘘をつくことに罪悪感を抱いているのなら、ふつうの神経だったら書くのをやめるべきなんじゃないの?と声は言う。(言ってません。演出です)

それでも私はやめられない。

楽しいから。

ブログ書くの、楽しいから。

もうライフワークになっちゃってて、書かないと気持ちが悪いんだよ。自己顕示欲とかもうなくて、ただひたすら書くのが楽しいだけなんだよ。

だからもうやめられねぇんだよ。

もういっそ、このブログを潰してすべて虚構でできたブログを始めようかなとすら思っている。それが短絡的だが最終的な解決かもしれない。

続けていくには心の落とし所を作らねばならず、結果として今日の記事を書くに至った。

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これもまぁ、嘘なんですが……。

 

モデルナ・アームの裏技

日ワクチン接種の1回目を済ませてきた。

仕事や休みの都合が合わず、周囲の人に比べたら遅めの接種になったが、ともかく済ませてきた。

集団接種会場はシステマティックに運用されて無駄がなく、人々の誘導や掲示板はさまざまなエラーを繰り返しながら最適化してきたことがうかがえた。係員の方々の誘導はスムーズで、人々はたじろいだり困惑する隙も与えられない。

接種自体はあっという間に終わり、私はアレルギー持ちなので30分経過観察に待機した。待っている間、先日直木賞を受賞した『テスカトリポカ』を読む。物語は佳境を迎えていた。

「そろそろ時間ですが、お体の具合はどうですか?」

夢中になっていたので30分はあっという間だった。すごくドキドキして、顔がほてり、絶え間なく興奮していた。

それがワクチンの副反応なのかもよくわからなかったので、待機時間に『テスカトリポカ』を読むのはやめた方がいい。

 

恋人は注射を打ってすぐに腕が痛くなったと言っていたので怖かったが、しかしだからと言ってどうすることもできないのでもう覚悟を決めるしかなかった。

先に打っていた母が「注射してもらってからずっと腕を上げていたら、痛くならなかった!」と嘘みたいな裏技を教えてくれたのだが、それを実践した妹によると「意味はなかった」らしいので話半分に聞いて、私はただ痛まないことを祈るだけにした。

わけのわからない裏技を実践して恥をかくくらいなら痛みを受け入れた方がいい。その裏技は母が考案したもので、なんの根拠もないのである。

 

副反応は人によりけりで、私はすぐには痛くならなかった。

助かったや、と呑気にスーパーで買い出しをして帰宅したのだが、接種から2時間ほど経った頃、夕飯の肉じゃがのにんじんを刻んでいたあたりで左腕に違和感を覚えた。 

なんか痛い気がする?程度だったものが時間を追うごとに痛みを増し、寝る頃にもなると気合を入れないと腕を上げられないくらいになった。

今朝起きたらもっと痛い。

仁王の顔になって腕を上げる。馬鹿だから腕を挙げるまで痛いことを忘れているので馬鹿の仁王だ。挙げてから痛みを思い出すので、いちいち「痛い痛い」と口にしており、それがなんだかアピールみたいになってしまって恋人に煙たがられてそうで怖い。

ただでさえ彼女の朝はご機嫌ナナメ(75度くらい傾いている)なのに、近ごろ仕事の忙しいことや、私だけが夏季休暇中であることなども手伝って、いつにも増してすこぶる曇り空だ。殺意みたいなものを感ずることすらある。そこで痛い痛いとしょうもないことを言っても煩わしいだけで本当にしょうもないだろう。

 

なので、痛いと言うのはやめて、笑うことにした。

爆笑ではなく、やれやれしょうがないな、と半ば飽きれるように鼻でクスクスと笑うのだ。

笑っていると痛みが軽減する気がするので、それを応用した裏技でもある。

 

なんだかんだ私は母の息子なのだと思う。

名前をつけてやる

ルファベットってたった26文字でこの世界のすべてを記述できるのすごすぎる。

単語も文法も組み合わせだけだし、単語に至っては ある程度の数を覚えると法則性が見えてきて(語頭と語尾の法則とか)覚えるのがさほど困難ではなくなるらしい。

それなのになんで私は英語をまったく喋れないのかというと、わからない。死ぬほど受験勉強したのに全然できない。問題は解けても、実用レベルではない。

おそらく日常レベルで必要性を感じていないからだろう。

「英語を喋れなかったらどこにも就職できません」と言われたら、日本国民はみんな英語が堪能になるはずだ。

 

それはいいとして話を戻すが、アルファベット26文字で表現できないものがないってかなりすごい。

それに比べて漢字はいったい何文字あるんだよ。書くのに適してなさすぎる。いや、書くために文字を増やしていった結果、インフレしちゃったのだろうから、マスターすれば書面で意思伝達するぶんには一文字で多様な意味を深めることができてアルファベットよりも情報のコスパがいいかもしれない。にしても多くて複雑だ。

 

でもそんなアルファベットでも、というかこの世界のすべての言語でも、まだ言語化できていない事象は無数にある。

言語にできていないのでパッとは出てこないのだが、たとえば先日Twitterで見かけた「liminal space」がそれにあたる。

使われなくなったデパートの人けのない廊下とか、誰もいない夜道とか見たときのなんとも言えない感じをliminal space と言うらしい。

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これは私が撮ったliminal spaceっぽいもの。

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※もっと人の気配のないものがそうなのだろうけど手持ちの写真がないので各自調べてください。そういうサイトもあります。

 

潰れたデパートのがらんとした通りの写真を見たときのあの感じ。あのロケーションと感情にようやく名前がついた。

言葉では言い表せなかったのは、あれに名前がついていなかったからだったのだ。

liminal spaceを聞いて思い浮かべたのは「超芸術トマソン」だ。Wikipediaを引用する。

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意味のない建築物とその奇妙な芸術性。

 

私たちは名前のないものに対して鈍感にならざるを得ない。なぜなら名前がついていない(言語化できていない)ので認識できないのだ。

名前のないものを捕まえて分析し、名前を与えることはなかなか難しい。

 

詩は名前をつけることに少し似ている。

まだ名前のついていない情緒、風情、心の底、あるいは誰もが感じたことのあるものに言語を与えて、新たな視点を開く。

詩は言葉の研究だ。

運転のコツ

動車を運転するのは好きだ。他に車がいなければもっと楽しいと思う。

私は法令を遵守することに心血を注いでいる。自動車を用いてどこかへ移動することよりも、法令を遵守することが目的と化していて、うまく法律を守れると、日本国民として誇らしい気分になるのだ。

荒れた運転をする人や、違反スレスレの運転をする人を心底貶している。非国民、とすら思っている。

なぜ私は法令を守ることに専念しているのかというと、運転適性検査で最低点を叩き出し、「重大事故多発」のレッテルを貼られているからだ。

油断すると危ない場面は多々あり、これまで何度も冷や汗をかいてきた。

こういう私だからこそ、法令を守り、周りをよく見て、安全運転をかなり心がけないといけない。

 

周囲の「優秀な」ドライバーからしたら私の運転は競馬場にロバが並んでいるようなものだろう。遅いだけではなく、種類が異なる。挙動が違う。

我ながら危なっかしくて見ちゃいられないこともある。

ドライバー同士のコミュニケーションがあるのだが、形式的なものはできるとしても、察し合いを全くできなくて、空気が読めない。

そのため場合によっては相手にクラクションを鳴らされたり、ミラー越しにものすごい睨まれたり、呪詛を吐かれたりする。

「なんかぶつぶつ言いながらこっちを睨んでるよ!」と同乗者に教えられても、どうしようもない。

「悪ぃ!」と空謝りしておく。

 

初心者の頃は周囲の状況を気にしすぎてて、運転がつらく、またそれによってかえって安全とは遠い運転になってしまっていた。

怒られるのって嫌だし、煽られもする。すべては私が悪いのだが、それにしても暗黙の了解は多く、現場の判断は瞬時にせねばならず、それを思うと運転は暗澹たるものであった。

だが、ある日なんとなく海外の交通渋滞の動画を見てみると、縦横無尽・ルール無用とばかりに走行するバスやトゥクトゥクやボロボロのセダンの姿に、私の運転技術なんて些細なものでは無いかと思えてきたのだ。

最低限のルール(車は道路を走ることとか)を押さえていれば免許が必要なさそうな世界ではギリギリ事故にならなければいいという安全基準で運転しているとしか思えなかった。

こんな環境に比べたら、日本の道はなんて平和なんだろう。

私は恵まれた環境に感謝した。

 

それ以来、煽られても呪詛を吐かれても怖くなくなった。

申し訳ないな、と少しは思うけど、でも事故にならなかったんだからいいじゃないか、と。インドに比べたらいいもんじゃないかと。

充分に気をつけてこの状態なんだからもう仕方がないじゃないか。

それで私は運転を楽しめるようになった。

 

読み返してみて、なんかふっきれた人みたいで非常に危なっかしいな。

これからも繰り返すのだろう

女と付き合い始めてもうすぐ5年になる。

5年といえば0歳児が5歳になって落語の一席でも打てるようになるくらいの年月なわけで、大学の4年間を越す年月なわけで、オリンピックが2回できる年月なわけで、つまり、そういうわけなのである。

5年なんて短いものだ。とも思うし、長いとも思う。

同棲ももう1年以上している。同棲を続けるくらいならさっさと結婚しておいた方が楽では?と思うこの頃で、ただ単に私たちは同棲という言葉の響きを楽しみたかっただけだったのだと思い知った。そして実際にそれは楽しい。

恋人と呼べる期間は人生でもうこの5年しかないのかもしれないのだから、今くらい楽しんだっていいじゃないか。妻、と呼ぶ期間の方がいずれ長くなるのだ。

 

私たちは同棲を始めた頃より貯蓄をしており、その金のごく一部を使って、記念に少し良いものを食べに行った。

フランス料理のコースだ。

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大きい皿に小さい前菜が、重要な雰囲気をまとって登場する。

小さいな、と思うけど、コース料理はこれからガンガン出てくるからこんなもので充分だ。

いわしのマリネとナスのなにか焼き物の前菜。名前は難しくて忘れてしまった。もちろん美味しい。

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カボチャの冷製スープを挟んで、次はサーモンとキノコのパイ包み。甲殻類の味のするソース。

パイにナイフを入れるとほろりと崩れて食べにくいものの、なんとか口に運べばキノコのソースと甲殻類のソースのガツンとした味が口いっぱいに広がる。食欲をそそる香りが鼻腔を抜けて脳髄に刺さる。

パイ生地もサクサクふわふわしていて、サーモンが柔らかくて、とてもとても美味しかった。食べにくかったけど。

「こういう食べにくいやつさ、初デートで食べたくないね」

「ナイフとフォークの使い方にモロ『育ち』が出ちゃうからね」

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メインに鴨肉。言うまでもなく絶品。

脂の甘みとハチミツを焦がしたような香ばしいソースが合う。 肉の味わいを抜群に引き立てる。

今こうして写真を載せただけでも美味しさを思い出してじっと見入ってしまった。

 

良いものを食べると味覚が拡張される。知らない味に対して敏感になり、感度が上がっていく。

こうして人生が豊かになっていくのだ。

とても感じの良い店で、デザートや飲み物も美味しかったので、また特別な日には来ようと話した。

 

ほんとうに久しぶりに彼女とちゃんとした服を着て、夜の街へ出た。昨年の暮れ以来だ。まったくとんでもない時代になったものだ。

久しぶりのデート。5年前の付き合いたての頃最初に手を繋いだ日を思い出して恥ずかしくなる。マスクをしていてよかった。

日々の積み重ねに幸せを感じる一方で、ときどきとても怖い。

私たちはどんどん鈍くなる。それが怖い。同時に鈍化は、重ねた年月の証左でもある。

繋いだ手を離したくない一方で、離さないとわからないこともある気がする。

 

こういった良い店を探してくるのは昔から彼女の特技だ。私はとにかく連れて行かれ、美味しさに驚き、賞賛する。それを5年も繰り返してる。そしてこれからもずっと繰り返すのだろう。

やっと夏休み/人間それは愚かな生き物/パワー

業して帰宅する道はいつもより広く感じて、夜は密度は濃く、街灯は特別な輝きを放っていた。

私は素晴らしい働きをして、すべての業務を先輩と後輩に引き継いだ。これで安心して、ようやく夏休みに入れる。

すっきりすべてを終わらせられたので、ほんとうに気持ちがいい。

休み中に仕事を思い出して「そういえば……」とずっと気がかりになることもなく、心から休みを満喫できるわけだ。

正月休みだったか、GWだったか、仕事でひとつやり残したことを休み中に思い出してずっと心がざわざわしていたので、その反省もあって今回は完璧な業務終了を目指した。このことからもわかるように、私は休むために働いている本末転倒な状況に陥っている。おかしな話だ。

 

「休むために働いている」

こんなことをしているのは人間だけだ。

猫たちが気ままに暮らしているファンタジー世界を描いた ますむら ひろしの『アタゴオル玉手箱』という漫画でこんなシーンがある。

野良猫たちがマグロに食らいつく中、教養のある高尚な猫が涎を垂らしながら「はしたない」と言って自分も食らいつきたいのを我慢するのだ。

(我慢……)(我慢だ)と自分を言い聞かす高尚な猫。

彼に対して野良猫が批判的に言う。

「我慢なんてのは、人間がするもんだぜ」

それは人間という愚かな生き物のする最も愚かな行為だと言わんばかりに。

高尚な猫は堰が切れたように我を失ってマグロに食らいつくのだった。

私は人間だから我慢をしなきゃいけない場面が多いし、我慢して働かなきゃいけない。休むために働くという意味のわからないこと多分死ぬまでずっと繰り返す。

ふとあの野良猫の言葉を思い出して、自嘲気味に笑う。

 

このようにマンガやアニメ作品で人間を嘲(あざけ)るキャラクターが好きだ。

そういったキャラクターがあまりいないのはユーモラスに描くのが難しいからだろう。

先ほども挙げた『アタゴオル玉手箱』は人間、とくに頭の凝り固まった人間や資本主義的で目的と手段をはき違えたような人間に対して批判的な作品だ。つきつめると作者の思想になっていくのだが、猫たちが肉球をぷにぷにしながら、時には涎を飛ばしながら批判するので可愛く読める。猫の次元に落とし込んでいる。

最近では『チェンソーマン』のパワーちゃんが好きだ。

パワーちゃんは「血の魔人」で極度の人間差別主義者、虚言癖であり、まともに話を聞いてはいけない仲間だ。主人公を一度殺そうとしたし、実際に車で轢いたこともある。

「嘘は人間のする最も愚かな行為のひとつじゃ」と言ったり「人間を苦しめるために消費税を100%にする」と宣言したり、人間に対して辛辣である。そこをコミカルに、可愛く演出できるのが作者の腕だろう。パワーちゃんはキャラクター造形のジャンルを一つ作り出していると思う。

もともとこういったキャラクターたちは、ともすればラスボスになりかねない。

だってラスボスは人間が嫌いだから。

めだかボックス』という漫画の球磨川禊(くまがわ みそぎ)も「エリート殺し」を推進する ある種の人間嫌いで、実際に章のラスボスだった(こう書くとポル・ポトみたいだな)。

人間が嫌い、という負の側面をどう敵対側に回さずにおけるか、その試行錯誤の結果作り出されたキャラクターに魅力を感じているのかもしれない。

あと1日/ぐうの音/勝者は誰だ

日1日を乗り越えれば私はようやく夏休みに入れる。

夢の10連休だ。

10連休なんてしたら、もう、社会復帰できないよ。

休みに入る前に片付けねばならないことや引き継がねばならないことが山積している。休み中になにかトラブルが起こった時に「これあいつが担当じゃね?」となると格好悪いからだ。

以前いた先輩が「休みに入るたびに悪事が露呈する」タイプの人で、休み中に爆発して私や他の先輩が被害を被り、しかも私と業務を分担していた分その加害者にされる濡れ衣も多々あり、極めて、極めて、このように書いていて今更悔しくなってきた。あの先輩が異動してくれて心から感謝している。

私もそうなってはならない。

だから確実に引き継がねばならない。

いつもより意気込んで金曜を乗り切ろう。

 

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ヤカンから蒸気が出ていたのでカップ麺に注いだ。

3分経って麺をほぐそうと箸を入れると、麺がゴワついて崩れぬまま麺の塊がひっくり返った。

湯がぬるかったのだ。

30分くらい待てば食べれるようになるかと思ったが、麺はほぐれたものの粉くさくてとても食べられず、そのまま休み時間が終わったので泣く泣くすべて捨てた。

「前にもこんなことあったよね」その話を彼女にしたらそう言われた。

「あったね」

「学習しないね。なんかさ、食べ物系の失敗多いよね。それって学習しない、反省しないからなんじゃないの?その場限りでは悔いても経験を活かそうと思ってないから同じ失敗を繰り返すんだよ」

ぐう

ぐうぐうぐうぐう

正論なのでせめて「ぐう」とだけ鳴いてやった。

悔しい。

私はカップ麺にありつけず、日中のカロリーは菓子パン一個で耐え、腹ペコのまま在宅勤務した可哀想な人なのに、なんでそんな酷いこと言われなきゃいけないんだ。

「そうさ」私は開き直った。「おれは学習しない。こういう体たらくが神経の芯にまで染み込んでいるから、骨の髄まで学習意欲がないから、結果として浪人生活を送ったのさ」

「そうやってなんでもかんでも浪人ネタにする。浪人ネタでウケてんのは浪人した人だけだからやめた方がいいよ」

「すべてはあの『遅れをとった一年』に収束されてんだよ。生き方のすべてのミスがあそこに濃縮されてんだよ」

「で、その浪人を経てもなお、学習しないと……」

……ッ!!

もはや ぐうの音も出なかった。

「ははは」

「なに笑ってんのよ」

「人はね、情けなくなると、笑うんだよ」

「キモ〜」

 

私は信じてる。

人生は最後に笑った者が勝者だと。