蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ブログは望遠鏡でもありタイムマシーンでもある

調べ物をしたり、ふと思い立って検索エンジンにキーワードを入れて検索結果をスクロールしていると、必ずと言っていいほど誰かのブログが目に入る。

世の中のありとあらゆるものは、ほとんど誰かのブログで語られている。

名前が付けられている万象の一切は誰かによって既に語りつくされていると言っても過言ではないだろう。あなたの部屋のシーリングライトや、ペットボトルのキャップや、靴下のほつれに至るまで、どこかの誰かが遠い昔かつい昨日かあるいは明日の朝にでも、ブログで骨抜きになるほど語っている。

そういう世界なのだ。

専門的なブログから、アフィリエイト広告を稼ぐためにしっちゃかめっちゃかなテーマで書かれているブログ、それから私のようにしみったれた個人的な生活の記録をつづったものまで、ブログのテーマはさまざまだ。そういった「さまざま」を目撃すると当然ながらも再認識するように、世の中には私の想像以上にバラエティ豊かに人々が暮らしていると実感できる。

人によって物の見方は異なっていて、その見方の背景には生まれ育ちの環境や経験や思い出が含まれている。同じ景色を見ていても、私が見ている光景とあなたが見ている光景はどこか違う。

 

偶然出会ったブログに入ってみる。

突然「先日はありがとうございました」から始まっていたりして、もう面白い。私は初めて訪れたブログなので文脈をまったく理解できない。

ブログはもちろん世界に向けて発信される文章なのだが書いてる当人としては普段読んでくれている方やフォロワーに向けて書いているつもりなので、インターネットという公共のインフラであってもブログという「囲い」を設けることで個人的な雰囲気が漂う。

個人的な日常や小さな幸せや悩みや家族との思い出やなにかの感想が、その囲いの人々に向けられて書かれているという雰囲気でもって存在しており、偶然の出会いによって読んでいる私は望遠鏡で他人の家庭のリビングを覗いているような気分になってくる。

他人のリビングを盗み見たくなったら、窃視罪を犯す前に全然知らん人のブログを読んでみるといいだろう。

 

あとブログの面白さだと、「○○美術館で開催されていた△△展へ行きましたが……」などと書いてあってもよく見ると2014年の情報だったりするからすごい。

パソコン関係のトラブル対応について調べていて有用な実行プロセスの体験情報を見つけて読んでいたら、ここ数日の対応について書いてあるように見せかけて2002年のブログだったことがある。

さも昨日のことのように書いてあるが、書いた時はその展覧会やトラブルが昨日だったとしても読んでいる今の私からしたらその「昨日」は数年前の昔なのだ。

書いているときは近い過去をほとんど現在の時間軸で書いているし、文体やテンションからも「現在」の雰囲気を感じ取れるのだが、実際には「現在」の鮮度を残したまま時計の針が進んでいるので、結果として「現在」の擬態をしたまぎれもない「過去」になっている。

「現在」の気持ちで「過去」を読めるのは案外貴重だ。

本は出版された段階で「過去」が前提にあるが、ブログやSNSは現在性に重心があるのでそうはいかない。「現在」の性格を持ったままに「過去」になっている。

 

改札ですれ違うだけのまったくの他人の生活がひょんなことから覗けたり、「現在」の顔をして「過去」に入り込めたり、ブログってちょっと臭うくらいロマンチックなもんだ。ちがう世界のリビングの団欒を覗ける高精度の望遠鏡でもあり、気持ちごと連れ出すタイムマシーンでもあるのだから。

 

私のこのブログは突然訪れた人からしたらどう読めるのだろう。

ふと読んでみたときの感触を思い出して、きっと困惑するだろうけどちょっとでも面白がってくれたらいいな、と思う。

 

夕焼けが綺麗だっただけの一日

耳の下から顎にかけて違和感があった。それは例えるなら水族館に枯山水が展示されているような、不釣り合いだがやりたいことはわかる、けれどもセンスは無いタイプの違和感だった。

なんとなく腫れてる。

熱は無いけれど、ちょっとだけ痛いような気もする。「気もする」程度の痛みなので、痛くはない。変な日本語になるが、「痛いけど痛くない」のだ。

「気のせいだよ」と言われればそうなのかもしれない。

仕事が嫌だと駄々をこねる私の妄信が痛みを生み出しているのかもしれない。

まぁこんなもの気にするまでもない。

「気のせいだろう」と一晩過ごして、軽くビールを飲んで、本読んで、ブログを書いて、消して、寝た。最近よいブログが書けない。

 

翌朝、やっぱり違和感はあった。

私はまだ正月休みなので、適当な耳鼻科へ行って簡単な薬でも貰ってこよう、と思った。

調べるとかかりつけの耳鼻咽喉医院は「営業日」ということだった。

この体調不良の種を早期に解決しておくことで、新年から体調を崩して仕事に出遅れないようにする。社会人として当然の振舞である。私は社会人なのだ。

営業開始の10時半過ぎ、病院へ行くと、やっていなかった。

「12月29日から1月5日までお休みとさせていただきます」

だと、医院のドアに楷書で書いてやがる。

インターネットでは「やっている」と言ってもそれはGoogleの希望的観測にすぎないということか、今日は1月4日なので明日にならないと医院はやっていない。しかし明日から仕事だ。

仕方が無いので、同じ街のもうひとつの耳鼻咽喉科へむかった。

「年末年始休み:12月30日~1月4日」

こちらも駄目。明らかにOfficeWordの中央ぞろえで書かれた張り紙がガラス戸に情けなくかかっている。

かくなる上はと、隣町の耳鼻咽喉科を2軒、それぞれまわったが、いずれも正月休みと称して門戸をかたく閉じていた。

別にわざわざ言うことでもないけど、一軒は1月7日まで休むらしくてもうなにがしたいのかわからない。

別にわざわざ言うことでもないけどパート2、寒空の下、隣町まで歩いた上に駅を挟んで縦横無尽に歩き回ったのでもうへとへとだった。

このまま帰るのも癪なので電車に乗って大きな街まで出て、ユニクロでフリースを買って、ラーメンを食べて帰った。ラーメンにネギをマシ、ニンニクをこれでもかと入れてやった。殺菌作用を期待してのことである。

 

帰宅後、症状と病院についてさらに調べているうちに、近所の内科がやっているらしい、という情報を聞きつけた。

午後の診察に向かうと、たしかにやってはいるみたいなのだが16時からだと思いきや16時半からで、しかも電話予約制であった。

さらに30分ほど街をウロウロして時間を潰し、行く当てもない街に住むのはこういうときに苦労するよなぁと思いながら泣く泣く見つけた公園のベンチに座ろうとしたらハト糞スポットでベンチと言うよりも便器の有様、仕方が無いので公園の一本だけ立っているハナミズキの周りををウロウロしながら医院に電話をかけて予約した。簡単に症状を伝えると、医者はフレンドリーな様子で「いいよ、来て」と言った。

その声の感じは「来てもいいけど」というニュアンスを含んでいた。医者だって正月明けで気だるげなのだ。

 

診察の結果、「よくわからないから様子見で」という結論に至った。

炎症止めみたいな薬を貰って、今後悪化するようであればすぐに来て、ということだった。

 

街を歩き回り、寒さに疲れ、口はニンニク臭く、しかもこれから帰ったら洗濯物をたたんで買い出しに出かけて夕飯を作らねばならない。

帰りに見た夕焼けが綺麗で、細い三日月が魂のように浮かんでいた。

空に浮かぶ船/実家の汚さ/猫の毛の愛しさ/謹賀新年

元の友だちと海に行ったら、船が空に浮かんでた。

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あちらの海の色が異なるので浮いてるように見えるのか、それとも蜃気楼のような現象で、温冷差で空気の密度が変わって光が屈折したのか、詳しいところはわからない。

とにかく船は宙に浮かびゆっくりと海上を滑っているように見えた。

まぁ正月だし、空中浮遊くらいするだろう。

これが200年くらい前だったら、船の空中浮遊を私の魔力と称して近隣の村人の心理を掌握できたかもしれないと思うと、ひじょうに惜しい気がした。村人たちはまともな教育を受けておらず、文字も読めないのだ。言葉と演出で私の威光を示せたかもしれない。

そんなことを友だちと話しているといつの間にか船は空中浮遊をやめて波間に落ち着き、南を目指して行った。

 

正月から実家に帰っている。

実家には実家特有の「汚さ」があって実家ならではの衛生意識が浮き立っており、自分はもう違う家に住んでいるのだと帰るたびに実感する。

なぜ実家には実家なりの汚さがあるのだろう。

たぶん、家族という小さい社会がこびりついていて、他の社会と隔絶しているために自分達を客観視できず、特有の衛生感覚に鈍感になるのだ。

外国に行くと日本では考えられない衛生状態で食品を売っている屋台や料理屋が存在する。皿に正体不明の油しみがついていたり、パイナップルにハエがたかっていたりするが、地元の人は普通に食べている。

それと感覚の仕組みは近い。

 

実家には2頭の猫がいる。

掃除機を毎日かけてもそこら中が毛まみれになるため、ソファのへりの部分やキャットタワーの掃除は半ば諦めているようだ。

TwitterとかYouTubeで自宅の飼い猫を売り物にしている猫アカウントの家はいつも綺麗だけど、どうしているのだろう。

猫アカウントは私が知らないだけで無数に溢れていて、バズり目当てに飼っている人も多く、無責任な飼育放棄や虐待も後を絶たないのだろうな。

閑話休題。(使ってみたい言葉第一位)

私の服もすぐに毛まみれになるのでコロコロして毛を払うが、立板に水である。さんざんコロコロして完璧だと思って外に出ると、フードの裏側から毛が出てきたりして油断ならない。猫たちはいつ毛をつけてくるのだろう。

でも、自分の家に戻ったとき、ふと服に猫の毛がついていると寂しくなるので人間とは勝手なものだ。

猫たちのそんな しれっとした気配を感じる。

 

今年もよろしくお願いします。

年貢の納め時

年は本をたくさん読めたし、映画も見たし、アニメもたくさん見て良い一年だったな~とほくほくした気持ちであると同時に、さてそれ以外にはなにかあったかというと特に何もない、停滞した一年だったと振り返る。

やりたかった転職もしなかったし、かといってキャリア・アップのために資格を取るわけでもなかったし、結婚もしなかったし、突然大金持ちになることもなかった。

来年もこのままで良いわけがなくて、こうしてダラダラ過ごすのは筋肉疲労が無くて楽だけど、私がどこにも行けないだけではなく彼女をどこへもつれていけないし、特別な人間になれないのは当然として平凡かそれ以下として自己評価も落ち込み、ゆくゆくはその苦しみさえも忘れてただ漫然と過ごして死んでいくんだろうな、という感じがする。

こわ~。

なんでそういう怖いこと言うのこの人?

 

ブログは書くのが簡単だけど、小説は難しいと再認識した一年でもあった。

ブログを休み休みにして小説も書いてみたけどぜんぜんうまくいかない。読み返すたびに落胆し、これなら書かない方がマシだとさえ思える。整備されてない公園の古い池で土鴨が溺れているのをなにもせずに見ているような気分になってくる。

一万字、二万字、と書き進めていくうちにこれじゃないほうがいいな、とまた最初から書き直しているので作品が完成しない。

「とにかく最後まで書くこと」というアドバイスはどこでも見かけるけどこれがかなり難しくて、最後まで書けるだけで一定の才能があるに違いない。最後まで書けてない私が言うのだから間違いない。

上手な文章ってなんだろう、と常々考える。

好きな作家の衝撃を受けた文章を何度も読み返す。小川洋子村田沙耶香村上春樹町田康西村賢太、今村夏子、谷崎潤一郎太宰治……

簡潔さこそ文章の要諦である。くどくど書いていたとしてもそこには簡潔さがある。

「おれならこう書くな~」と思ってしまう作家や作品があるものだけど、尊敬する作家にはそれがない。当然プロだ。

 

あ~もう嫌になってきた。

なんでさっきから暗いことばかり書いてるんだろう。

 

これがこの2021年の、すべて、なのかな。

じゃあ2022年はこれらをどうにかしないと。

 

なにか面白いことのひとつでも言って終わらないと、年が納まらない。

え~、あれだ、どうしよう。

そうだ。

「年越しそば」の物まねします。

 

モノマネ:年越しそば

ズゾ、ズゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾ……ズゾ……

ズゾゾゾゾ、ズゾゾゾ、ズゾーーーーーーーーーッ!

ズゾゾ?

ズーゾ。

ズバババババババババババババババババ!!!!!!!!!!!!!

ズバッッッッッッ!!!!!!!!!!!

ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

ゴッ……

ギギギギギギ……ギー、ギー

ズゾ?♡(上目遣い)

ズゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾ、ズゾッ

ギギギギギギギ

ズ、ズゾ!

ズゾゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾゾ、ズゾゾゾゾゾオオオオオ!!

コーーーーーーーーーーーーーーーーーホーーーーーーーーーーーーーーーー

ज़ुज़ोज़ोज़ोज़ो 

ゴ~ン♡ ゴ~ン♡ ゴ~ン♡ ←除夜の鐘の音

 

こんなことなら書かない方がマシだった。

失われたピアスを求めて

日、夜遅くに彼女が半べそで帰ってきた。

「帰り道にピアスを片方落とした」

詳しく話を聞いてみると、その日はピアスの調子が悪くてたびたび耳から落ちていたらしく、帰り道にも落ちそうな兆候があったのでいっそのこと自分で外してしまえと耳から取ったら、指先から滑って落とした、ということだった。

すぐにスマホのライトで照らして探したが見つからなかったという。

彼女は目が悪いくせに眼鏡をかけない、コンタクトレンズを作らない人なので、夜道で落としたピアスが見当たらなくても不思議ではない。

とりあえず、マフラーとかコートの裾に引っかかっているかもしれないので玄関で脱いでバサバサしてみたものの、彼女の身につけていた衣服からは出てこなかった。

 

となると。

 

やれやれ、と私は言うのを我慢した。

彼女の帰りが遅かったので私はさきに夕飯を済ませていたのが功を奏した。おそらく空腹だったら機嫌を損ねて悪態のひとつでも吐いたかもしれない。前日に作りおいたシチューにうまく味が染みていたし、ついでに作ったゴボウのチーズ肉巻きも美味しくできていたのも私の情緒を安定させた要因だった。

どう考えても彼女は空腹で冷静さを欠いていたし、美味しいシチューを食べるべきだったが、そんなことよりも大事なものを彼女は喪失している。ここで私がこう言わなければ彼女は人間性までも失っていただろう。

「よし、もう一度探しに行こう。おれも行くから。君は眼鏡をもってくるんだ」

こうして夜の捜索が始まった。

 

「たぶん、このへんで」と彼女が指した路地は、街灯の間隔のちょうど闇が濃いあたりだった。

「たしかにここの白い壁の前でピアスを外したんだけど……」

「とりあえず、くまなく照らしてみよう」

各々がスマホのライトでアスファルトを照らして腰を折り、ひとつの異変も漏らさないように道路の端から目を皿にした。

自慢ではないけど私たちの住んでいる街は綺麗で治安も良く、犬の糞をはじめとする糞の類は一切落ちていないし、あからさまに故意に捨てられたゴミなどもない。近所の池には魚が泳ぎ、鴨が尻尾を振っている。野良猫だってちゃんと公衆トイレで用を足す街だ。

しかし普段は綺麗な道路でも、じっくり目を凝らすと細かなゴミが浮かんで見えてくる。

紙の端、クリップ、ドデカミンのキャップ、ビニールのかけら、などなど。きらりと光ってピアスかと思って飛びつくと、極小のボタン電池だった。

道路をじっくり見るのなんていつぶりだろう。アスファルトは一体、よく見るとさまざまな色の石でできているとわかる。やたらと青く染まった小石や、赤く光るもの、白いものもある。黒く見える道路だって近づいてみれば多様性に溢れているのだ。

「ないないないない」

私が道路の小石に思いを馳せているうちにも彼女は死に物狂いでピアスを探している。

彼女の言うとおり、他の発見はあってもピアスだけは無い。

幅の広い道路でもないし、案外すぐに見つかると踏んでいたのだが、何度同じところを行ったり来たりしてもピアスは見当たらない。

意外と通行人が多く彼らは私たちを不審な目つきで見てくるので、こちらも睨み返してやった。なんだコラ。見せもんじゃねぇぞ。

夜な夜な住宅街でピアスを探す私たちに向ける目つきの冷たさよ。それが人情ですか?悲しいよ私は。

するとひとり女性が「あの、なにか、お探し物ですか」と声をかけてきた。

「鍵とかなくされたんですか?」

「いえ、あの、ピアスを探してて……」

「あ~、ピアスですか……」

女性は半笑いで苦しそうに眉を顰めて、別に我々を手伝うでもなく西の方へ去った。

なんだったんだ。

「あの人はなにか心当たりがあったのだろうか」

「通りすがりの善意だったね」

 

20分ほど探したがいよいよその道にピアスは無く、考えられる可能性としては、「落としたときにコートのすそに引っかかり、うちへ行く道の途中でも落ちた」と「カバンの中や家のどこかにある」になった。

前者だとすると見つけるのはほぼ至難である。だが探さなければ見つかりもしないので、なんとなく道路を見渡しながらその日は帰宅した。

家にもピアスは無く、翌朝も彼女は早めに家を出て探したが、ピアスは見つからなかった。

こうなったら座敷童が奇跡を起こしてくれないと出てこないだろう。

 

でも、不幸中の幸いというか、ピアスを失くした時期だけは良かった。

「クリスマス」にかこつけて、いくらでも新しいものをプレゼントできる。

あなたに会いに仕事へ行く

社してなにが楽しいかって昼食くらいのものだけど、あとは強いて言えばそうだね、あれを見るのが楽しい。

「なんか最近ちょっといい雰囲気の男女社員」を見るのが楽しい。

いい雰囲気、というのは、つまり、LOVEのことだ。

とくに別のチームで動いている他人の仲がそうなるとおもしろい。乳繰り合うのを今か今かと期待して会話に聞き耳を立てる自分がいる。

 

私とは別のデスクの島の、要するに他のチームの男女が最近、いいかんじだ。

二人は私の一年上の先輩と私の同期である。同期と言っても出向先の社員なので私のクライアントにあたる。

二人は日中の業務中はあまり言葉を交わさずそれぞれの課題と向き合っているのだが、人がはけて彼らの上司や先輩が去るとぽつぽつ言葉を交わしはじめて、ときどきくすぐったそうに笑い、キーボードになにかを打ち込むふりをしながら仕事とは全く関係のないプライベートなことを話すようになる。

昼ごはんに何を食べたとか、近所の商店街で誰を見たとか、ゲーム機を買ったこととか、実家を出たいこととか。

私もキーボードになにかを打ち込むふりをしながら、二人の会話に聞き耳を立てている。(こうして客観的になって書いてみると心底気持ちが悪い男である)

二人はお互いの業務が終わるまでそのように喋りながら時間を潰し、仕事が終わったら私への挨拶もそこそこに水鳥のように連れ立って帰っていく。

 

どちらかが出社しているとき、もう片方も必ず出社している。

どちらかがテレワークなら、もう片方もテレワークだ。

もはや二人にとって会社とは終業時間後の逢瀬の場でしかないのかもしれないし、すくなくとも私にとって会社とは二人の様子をうかがい知るための観察小屋でしかない。ブンブン・LOVE。

でも二人がそういう関係なのか、それともこれからそういう関係になろうとしているのか、あるいは単に先輩と後輩の仲なのかは、しかしながら確かめようもなく確証は得られない。私の妄想がたくましいだけかもしれないし、私の勘が鈍いだけかもしれない。私の勘の精度は素人のスリーポイント・シュートくらいだ。

でも決まるときは決まる。

 

「職場恋愛はやめたほうがいい。悲惨な目に遭う」

私の先輩は遠い目をして自らの過去を述懐する。

「うまくいけばそれでいいけど、おれみたいになると……」

先輩の恋愛昔話はいつもそこで終わってしまう。言わぬが仏なのだろう。

職場恋愛の悲惨さは私にも覚えがある。

前に同じチームにいた先輩(さっきの先輩とは別の人。軽薄で無責任で嫌いだった)が派遣の女性に手を出していたのだが、派遣されてすぐに猛アプローチしていた節操のなさや、その女性がまったく仕事を覚えなくて役立たずだったことや、そのせいもあってすぐに契約を切られたこと、それから女性はいろんな男と遊んでいたらしいことなど、考えられうる悪いことが重なったことがあり、その長く短い契約期間の2か月は最悪の雰囲気で、挙句の果てには昼休憩の時間が終わっても二人が帰ってこないなどとても大人とは思えない醜態をさらすなど、やれやれ、その先輩の直属の後輩であった私は一年目にして職場恋愛の弊害の洗礼を浴びたものだった。

これはやや特殊な例かもしれない。

 

職場はまず人間関係より「仕事」がメインの場所であって、場と人の存在のアイデンティティは「仕事」に根付いている。そこには仕事に対する責任が大小ある。

だから職場の恋愛は難しいのだろう。失敗しても仕事はしなくてはならないし、うまくいっても浮かれているとそこは職場なのであまり相応しくない。

どちらにせよ職場の雰囲気で救われることもあれば滅びることもあるだろうけど、その環境を作る責任は社員一人一人にあるわけではない気もする。結局当人同士による。

 

まぁでも、いい雰囲気の男女を観察するのはおもしろいものだ。ストーリーがあり、詩情があり、会話に鼓動と血の通う体温がある。

二人の関係がすすんでいくようなら平和裏に幸せになってほしいものだ。

 

嫌な思い出を忘れる方法

今週のお題「忘れたいこと」

 

れたいことほど忘れないように人間、というかすべての生き物はできている。

一度の失敗を深く記憶に刻み込むことで次から行動を修正する性質は、たとえば命を脅かす存在を遠ざけたり、食べ物を効率よく入手する手段に活かされ、「失敗」を生命がより繁栄するための礎にするのだ。

人間は文字(メディア)を発達させて自分以外の人のエピソードや歴史を学ぶことで集団として成長し、ここまで繁栄し、地球を破壊することに成功している。「愚かな歴史は繰り返される」という学びを得て、また愚かな歴史を繰り返すことに一人一人が寄与している。

 

「そうか、あの失敗も未来への礎になるんだな」と思えば浮かばれるような気もしないではないがそれはそれとして、過去の失敗や恥を何度も頭の中で繰り返して穴の中に入り込み、世間を拒絶したくなるような夜を何度繰り返せばいいのだろう。

もういいじゃないか。

「生き方」そのものを変えない限り、根本的な失敗や恥は続き、おそらく一生、穴を探す人生になる。

この冬の間だけ、なんて短期的なものではない。一生、だ。

このブログだって恥を書いているようなもので、ちゃんと管理しておかないといつか黒い波になって私を呑み込んでクジラの排せつ物にするだろう。口悪く言えば、デカい糞、である。ひとつ救いがあるとすれば、糞は流せる、という点だけだ。

 

先述のとおり、嫌な思い出ほど忘れないようにできている。だから現実をなかったことにするレベルで忘れることはできない。

だが、いくつかの対処法を知ることで穴掘りのダメージは抑えられる。

 

●「忘れたいことほど忘れられない」自分を愛しく思う

→これはチャットモンチーが歌っていた歌詞だ。人間は忘れたいことほど忘れられなくて愛おしいのだ、と。

 嫌な思い出に呑まれたあとでこの言葉を思い出すと、傷口に絆創膏を貼られたみたいに、すぐには癒されないけれど保護されている感じはして、心を落ち着ける。

youtu.be

 

●「今のすべては過去のすべて」

→これは『かぐや姫の物語』の主題歌「いのちの記憶」で二階堂和美さんが歌っていた歌詞だ。

 あの失敗とか経験があったから現在がある。現在を愛おしく思えるならこの言葉はとても強く私を支えてくれるけど、下降気味の時には思い出しても何の効果ももたらさないどころか、悪い方向へ導くので注意。

youtu.be

 

●過去と現在を切り離す

→上に書いたことと矛盾するけど、これは結構効果的だ。

 人間の細胞は常に新陳代謝をして入れ替わり続け、数年前の自分にあった細胞は現在一つとして残っていない。自分という一個の存在ですら常に変化し続け、過去の自分とは同一ではないのだ。

 つまり、極論、過去の自分は現在の自分とは違う、他人なのである。

 他人の失敗なら別になんとも思わないですよね。むしろ笑えてくる。馬鹿だなぁって。笑えてくる……。

 

●他人の失敗談を探す

→インターネットは便利なもんで、「失敗談」で検索するといくらでも他人の失敗が出てくる。それを読んで「自分なんて可愛いもんだな」と最低だけど心を落ち着けよう。

 極めつけは「ベルリンの壁」を誤って解放してしまった東ドイツ政務長官のエピソードだ。こんなやらかしをしても生きていける。

omocoro.jp

 

●死ぬ

→死ぬ