蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

『シン・ゴジラ』の面白さ~なぜ海外ウケが悪いのか考察~

に1回は『シン・ゴジラ』を見返している。

何回見ても面白くて、見るたびに発見があったり、あ、そういうことだったのかと気が付く点があって、バカみたいに新鮮な気持ちになる。

それにしても、よくもまぁこの内容で大ヒットしたと思う。実際、海外でのウケは悪いらしい。

でも、それもそうだと納得できる。

映画ってたとえばミステリーとか、SFとか、ファンタジーとか、ミュージカルとかさまざまな「ジャンル」があり、それとは別に「テーマ(感情とも言い換えられる)」があってたとえばラブだったり成長だったり葛藤だったりが描かれるわけで、要するに物語というものは〈SF×家族愛〉みたいに「ジャンル」と「テーマ」が掛けあわされている。

さらには「変化」という三つ目の軸が加わることで物語は回転し始めるのではないか、というのが持論なんだけど、それはまたの機会に。

私個人の考えだけど、作品が鑑賞者の胸を打つ大きな要因は、「ジャンル」に掛け合わされる「テーマ」にこそあるんじゃないかと思っている。

怪獣パニックものにラブとか家族愛なんかが掛け合わされることが多いのは、単純に怪獣が騒いで戦っているだけではお話として成立しないからで、万人に共感を与えられる「テーマ」があれば怪獣パニックというフィクションとのギャップが生まれて、そこの高低差にカタルシスを覚えるからなんじゃないだろうか。

では『シン・ゴジラ』はどうだろう。

 

この映画は「特撮×政治劇」だと私は思う。

個人の感情や成長(変化)に焦点はあまり当てられず、もちろんラブストーリーもない。自衛隊員の苦闘を徹底的に描写している話ではないし、科学者の感情に迫るわけでもない。

「現実的に考えて、行政はなにができるか検討し、課題解決に向けて取り組む」話である。それはもはやゴジラを倒すために現代日本の政府は何ができるのか?という一種のシミュレーションじみてもいるだろう。

政治劇だからと言って、その華である「権力争い」が描かれるわけではなく、いかにして責任から免れるかとか、会議や書類の手続きが面倒であるかとか、米国や諸外国との関係が面倒くさいかとか、国民と政府の意識の乖離みたいな、高度な「行政あるある」が詰め込まれていて、共感性があるにはあるけれど、「個人の物語」にはならない。

見方によっては淡々としているとさえ言う人もいるかもしれなくて、毎度見ながら私も「ストイックだなぁ」と感想を抱く。

 

じゃあどこが面白いのだろう?

ゴジラのパフォーマンスが格好いい、怖い、という魅力が第一にあるのは当然として、戦闘(破壊)シーン以外の「つなぎ」を楽しめるのはなぜだろう?

今回気付いたのだが、「会議」ってかなり面白いな、ということだ。

いろんな人が出てきてそれぞれの思惑があって、でも会議の場を成立させるために建前の装備に身を包み、本懐を通すために根回しをする。で、会議をひっちゃかめっちゃかにしようとする奴とか、自分勝手な奴、話にならない奴が出てくる。

会議は、いろんな思惑があるから面白い。

そして会議をしている間にゴジラが暴れて会議の内容がリセットされて、また会議がイチから始まる。同情せずにはいられない。

会議シーンは地味だしセリフも多いし小説で書こうとすると相当大変だし、内容を整理するとかなりカオスなことになっており映画でもコスパは悪いと思うが、会議シーンこそ手を抜かずに映してほしい。

他の映画だと『日本で一番長い夏』も会議がかなり多くて面白い。日本が終戦に踏み切るかどうか、めちゃくちゃ大事な会議の中で、それはもういろんな思惑が飛び交いながら、天皇陛下の前では建前を突きとおし、軍部をコントロールし、なんとか全員の意見をまとめて落としどころを探っていく。すごい脚本力だ。

パンク侍、斬られて候』これは小説と映画だけど、こちらも会議シーンが面白い。

「思惑」が「言葉」によって交錯し火花を散らすのが会議の面白さの醍醐味なのだ。

 

だから言葉のリズムとか役者の活舌が大事だ。

シン・ゴジラ』はそれをクリアしている。ふと日本語の面白さに思い至る。

やたらと長ったらしい役職名とか単刀直入でありながら遠回しな表現がうち乱れるセリフの応酬が気持ちいい。

漢字のカクカクした字体の雰囲気が言葉の端々から感じられて、ある瞬間に言葉の羅列が快楽物質のように流れ込んでくる。だんだん、もっと喋れ、とさえ思う。

早口というものは内容の理解が難しいけれど、それ単体として発音自体の気持ちよさが伴っているのだ。早口になるほどこちらの感情も焦ってきて興奮してくる。ビジネスシーンや発表の場で緊張している人の早口を聞いているとこちらも落ち着かなくなる経験は誰しもあるだろう。

スピーチでも最初はゆっくりで、だんだん速くなっていくのは聴衆の感情を煽るためだ。

シン・ゴジラ』の面白さのひとつに、そういった「言葉」の性質があるのではないだろうか。

 

怪獣が大暴れする緊迫と不気味さ、凄味のある恐怖が大好物な私は、ゴジラがいるってだけで興奮するけど、鑑賞者の中にはそうでない人も多数いる。そういう人たちにとって『シン・ゴジラ』の面白さは「言葉」になってしまうので、それにも気付けないとなれば、かなりシビアな映画になってくるのではないか。

外国だとさらに難しくなりそうだ。

字幕で見せられても理解するのが大変だし、読めないし、音声的な面白さは伝わらない。

英語のアテレコがついたところで、日本語的なセリフの応酬の面白さまで再現できているのか、はなはだ疑問である。

そこにきて「テーマ(感情)」が伴わないので、そりゃあ、ウケが悪いのも頷けるというものだ。

 

などと思ったりした。個人的な感想です。

シン・ゴジラ』でも再三言われているように、明言は避けるべきだ。

背もたれのある素晴らしさ

ちでは座椅子ソファを使っている。

その理由はいろいろあるのだけど面倒くさいので割愛するとして、妻と二人暮らしの我が家では二人掛け用の座椅子ソファを、同棲をはじめた2年半前から使っている。

しかし、私が勢いよく背もたれに「バン!」ともたれかかっていたことが功を奏したのか──あるいは禍(わざわい)となったのか──使用して1年半ほどすると背もたれがぐずぐずになって機能しなくなり、もたれかかると「がががが」と不気味な音を出して180度に開ききってしまい、椅子として機能しなくなった。

巨大で無骨な座布団と成り果てたのだ。

どの角度に設定しても耐えきれずに不穏な音をもって180度に開ききってしまい、もはや修復も困難になったので、2022年になってからは「巨大な座布団」として使用していた。

 

なにごともマイナス面から捉えるとよくない。新人を教育するときは良いところを褒めてから注意をした方が穏便に済む。子ども叱るときもまずは理解を示してから指摘するように。だから、座椅子として機能しなくなった座椅子ソファのいいところをまずは挙げておこうと思う。

部屋の立体感が損なわれて、なんだか空間が広々とした印象になったのはよかった点だ。背もたれによる立体感がないので、視界が開けた。

それに、まぁまぁ寝られるやわらかさなので、お昼寝でベッドがわりに使うのにちょうど良かった。座椅子ソファを置いているリビングには間取りの都合上、私のシングルベッドが置いてあり、寝たいときはこのベッドで眠ればいいのだけど、シングル故に二人で眠るのは多大なストレスを伴う。なので、妻か私のどちらかがベッドを使うときは、もう一人がこの座椅子座布団で眠った。

「ベッドよりも寝心地が悪いから、深く眠らなくていい、お昼寝とかにちょうどいい」と私は評価した。

さて次に悪かったところ。

なんと言っても、座椅子として機能していない点だ。

背もたれが無いので映画を見るときやゲームをするときは、長時間座っているのがとにかく苦痛だった。

背もたれを開発した人は本当にすごいと思う。人間工学に基づいた需要をよく理解している。背もたれがなくなってからその素晴らしさに気付けた。

悪かったところはこの一点だけなのだけれども、これがポジティブな面を上回って我々に少しずつストレスを与えて、日々を絶望的な景色に変えていった。

 

だが、私はそれを甘んじて受け入れた。

座椅子ソファは2万円弱なので、正味、そこまで高い買い物ではないけれど、私はケチった。新しいソファを買いたくない。意地だ。

「簡易ベッドとして使えるじゃない」「のっぺりしていて可愛いよ。おれは昔から一反木綿が好きだったんだ」「わぁ!溝の掃除がしやすい!」「逆に、いいよね」

などと盛り立てて妻の気をそらし、現実を受け入れてハッピーに暮らそうと努めたのだが、しかし、このたび、妻の怒りが爆発した。

「どうしてわたしが家に友だちを呼べないかわかる?」

「え、なんだろう。コロナだからかな。気にしなくてもいいよ。おれが邪魔なら、ぜんぜん実家帰ったり外出するし」

「ちがう」と言って指をさす。

「え?」

「こいつが恥ずかしくて呼べないんだよ」

妻が指をさしたのは、私が寝ころんでいた役立たずの座椅子座布団であった。

「背もたれが壊れてる座椅子を重宝して使ってるなんて友だちに知られたら堪らないでしょうがっ。はっきり言って異常。頭おかしい」

異常。

落第者。落ちこぼれ。馬鹿。能無し。

我が家の悪運はすべてこの座椅子座布団によって引き起こされていると言わんばかりの猛烈なシュプレヒコールだった。

「すげー汚いし」

たしかに、座面にはこぼしたアイスの染み、ソースの染み、チョコレートのカス、ポテチの油汚れ、ハナクソ、耳クソ、爪垢、涙、よだれ、血液のほとばしった染み、精液のにおいなどが染み込んでおり、衛生的にはスラムの路面となんら変わりない状態である。私はここに、嬉々として寝ころんでいたのだ。

「新しいソファを買わないなら、離婚も考える」

そこまで言われたら、もう、彼女の言うとおりにするしかなかった。

 

だいたい、私は自分を偽っていた。

背もたれがない汚い座椅子座布団という現実から目を背けて、プラス思考で生きようと無理をしていた。

妻に「捨てる」宣言をされたことで、肩の荷がふっと下りた。

 

新しい座椅子ソファをすぐに買い、ろくでもない巨大ひし餅は、区の要請に従って、アパートの前に捨てた。一度決めたら呆気ないものだった。

アパート前のアスファルトに置かれた菱餅は見るからに異質そのもので、「本来ないはずのものがそこにある」不気味さは「あの世」の光景に見えた。街灯の下で佇む異様な綿の塊は、なにか、象の死体のようにも見えた。はやく回収されてほしい。路上生活者に痰を吐きかけられても仕方がないような有様だった。

まもなく、新しい座椅子ソファが来た。

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背もたれがあるというのは、ほんとうに素晴らしいことだ。

肌触りもやさしくていい感じで、ずっと座っていたい気持ちにさせる。色も可愛くて、茶色を基調とした部屋に緑は映えるので気に入っている。

これで、妻が友だちを招待できることだろう。

私は背もたれの陰からそっと見守りたいと思う。

なぜ芸術作品にスープをぶちまけることが環境問題の抗議活動なのか?

州の美術館で、作品にスープをぶちまけたり、額縁と自分の手を接着剤でくっつけたりする不埒な輩が続出しているらしい。

彼ら・彼女らは一様に環境問題を訴え、じぶんの正義に則って行動を起こしている。

その団体の代表者も、まずはこのようにして環境問題への注目度を上げることが目的だなどと話していることからもわかるとおり、彼ら・彼女らはまったく聞き耳を持たない完璧な馬鹿どもだ。教科書に載せていい。明確な愚から人々は学べることがあるから。

 

ゴッホは「ひまわり」を、環境問題に目を向けてほしくて描いたわけじゃない。ゴーギャンの目を惹きたくて描いたのだ。

故人とはいえ、人が命を削って作った作品を愚弄し、しかも自分たちの目的のために利用しているというのが、まず許せないポイント1。

次に、ガラスなどで保護されているから、なんかちょっとだけ許されるだろ、みたいに思ってそうなのが許せないポイント2。日和ってる。覚悟が足りない。「とりかえしがつかないわけじゃないし本体は無事だから」って最悪の部分での保身には理性的なのにやってる行動は感情的に見える。

そして許せないポイント3。作品は長い間に紆余曲折を経て、美術館へ保存されて、現在の人々から大切に保管されている。そこには作者以上に、芸術作品を愛する気持ちを持った人たちの想いが込められている。それを踏みにじる行為、なによりも許せない。

人が大切にしているものを自分の目的のために穢していいわけがない。

 

それにしても、どうしてゴッホにスープをぶちまけることが環境問題への抗議活動になるのだろうか?

注目を浴びたいだけなら、ロンドンの街を裸で馬に乗って駆ければいい。街じゅうの車をパンクさせればいい。観覧車のゴンドラから飛び降り自殺させればいい。注目を浴びたいだけなら。

ここで考えたいのは「どうしてスープをぶちまける悪行になったのか」だ。

つまり、方法論の理由を考えてみたいと思う。

 

自称環境保護団体にとって、嫌なことはなんだろうか?

地球の環境が破壊されることだ。

環境が破壊されるとはどういうことなのだろうか?

異常気象が起こるとか、作物が育たなくなるとか、動植物が絶滅するとか。地球に自然としてあるものや事象が異常をきたして失われたりすることだ。

自称環境保護団体曰く、私たちはそういった破壊の現実から目を背けているので、目を向けなければならないらしい。

環境破壊。それは地球の自然という「資産」が、人間の手によって不当に、理不尽に、破壊されること。

地球にとって森を一つ失う痛みは、たとえば私たちがなにを失うことに匹敵する痛みなのだろうか?

ゴッホの絵画を一枚失う痛みに等しいのだと解釈したらどうだろうか。

自称環境保護団体はその地球の痛みを代弁してやっていると、どの立場なのかわからないけど、そんな立場で行動を起こし、疑似的に私たちに痛みの深刻さを訴えているのではなかろうか。

不当に「資産」を破壊される痛み。人間の作り出した「作品」という「資産」を一方的に奪われる悲しみを表現しているのだと考えられる。

歴史的な絵画を失う苦痛は海面が数十センチ上昇する地球の苦痛と等しい、と彼らは言いたいのかもしれない。あるいは地球を、我々の「未来」と言い換えて。

 

ほんとうにそうなのかは知らない。ただの妄想だから。

実際のところは違うだろうし、今や注目度を高めることだけに目的が集中しており行動それ自体は形骸化している可能性もある。

でも、そのように解釈をおこなうと、納得はできないものの、理解はできる。

たしかに、そうかも、とちょっと思える。

でも、それでも、やり方は間違えていると明言しよう。理解はできても了承はできない。

容認しちゃいけない、こんなやり方を。

正当に、冷静に、けれど情熱的に活動している環境保護団体をも踏みにじる行為に違いない。実際に、環境問題はヤバいし、自分にできることならなんとかしたいとも思っているのは本当だ。でもやり方ってもんがある。

言いたいことがあるなら言えばいい。

誰かを、なにかを、傷つけていいわけがない。

今ぶちまけていいのは、スープじゃないはずだ。

『八日目の蝉』をまた見れるようになる日

お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」

 

『八日目の蝉』にはほんとうに泣かされて、嗚咽して声が出なくなった思い出がある。そのあと原作も読んでまたひどいくらい泣いた。

角田光代さん原作で知っている人も多い映画だろう。

不倫相手の子どもを誘拐した女の逃亡劇と、その子どもが大人に成長したときの葛藤を描く二部構成。母親とはなにか?母性とは?子どもにとっての親とは?そんな重いテーマな作品だけど、内容のおもしろさと役者たちの演技力に惹きこまれる。

邦画って演技力が気になってしまうと作品に入っていけなくなるんだけど、この映画は演技に関しては非のうちどころもなかった。というか、演技がとくによかった印象。

とくにラストの永作博美の、あのシーンが、ほんとうに、思い出しただけで、涙腺が緩む。

子どもを抱きかかえながら逃亡するつらさと罪悪感、焦り。けれども、子どもの存在が永作博美演じる主人公の生きる希望になる。

母親とは何か?をさまざまな視点から考えられる作品だし、母親とはこうあるべきだ、なんて説教くさい話でもない。母親は男の犠牲かもしれないし、免れようもなく女でもあるかもしれない。一般論で論じられる内容ではないけれど、少なくともこの作品の中では男がマジで悪い。

けっこう考えさせられるお話だ。

でも、この作品の中で「母親とはなにか?」の答えがちゃんと示される。

そのシーンが、ほんとうに、(以下略)。

 

この映画、大好きなんだけど、じつは一度しか見ていない。それも5年前とかだ。

頭痛になるほど泣いて、感情が滅茶苦茶になり、しばらくは白湯とお粥しか食べられなくなった(覚えてないが、ラーメンやカレーも食べた気がする。ハニトーも食べた)。

ともかく、そのくらいショックを受けて、人生で一番泣いた映画なので、怖くなってあれ以来見れていない。

「忘れた頃にまた見ようかな」なんて思いながら5年経った。ぜんぜん忘れないので見れない。

また見たいのだけど、見る前からため息をついてしまって、再生ボタンを押せないでいる。

まだもうしばらく、長すぎる余韻をしゃぶり続けることだろう。

 

原作の方がより濃度が高くて言葉の強さも印象的だが、おそらく映画では描かれなかった(忘れている)キャラクターたちの「その後」にも少しだけ言及していて、そこに救いがあって良かった。

たぶんだけど、作者は『幸せの黄色いハンカチ』を見たであろうシーンが書かれている。ネタバレになっちゃうのでここには書かないけど、そのシーンを読んで思い出した。

 

ドラマ版もあるらしいが、どうなんだろう。映画を越えられるのだろうか。

仕事終わりのミニデート

日は仕事を定時で終わらせて、電車を乗り継いで有楽町へ寄り道をした。

見ておきたい服があったのだが、私が到着する頃には店は閉まっており、スタッフが撤収作業をしていた。

ひじょうにがっかりした。でも仕方がない。

妻にいま有楽町にいるよ、とLINEをすると、ちょうど彼女もマルイにいるというので、このまま落ち合って夕飯を済ませることにした。

今週末に妻の友だちの結婚式があるというので有楽町のハンズに寄ってご祝儀袋を買い、ついでなので少し歩いて銀座の方へ向かった。

いつの間にか11月も終わりに差し掛かっている。夜の空気が冷たく頬をかすめる。街路樹にイルミネーションが施され、なんの特別でもないビルの谷間が必要以上に輝いている風景に、冬の到来を感じる。

ブランド店のショーウィンドウに芸術作品のようにバッグや服が飾られて、銀座は街ひとつが美術館みたいで歩いてて楽しい。平日の夜は、休日に比べたら人も少なくて歩きやすい。

「今年のクリスマスはどうしようか」

なんて話をここ最近ずっとしている。

今年のクリスマスは土日なので、せっかくならどこかに出掛けるとかなにかしたいと妻が言うのだ。

私は人混みが嫌いだし、旅行も難しそうだし、正直、クリスマスというものになんの感情も抱いていないので(あれだけ盛り上がるのに祝日にならないナゾの日と思ってる)、妻の好きにしてほしい、言うことには従って連れ立ってどこかへ行こうと思う、と以前伝えたら、ヘソを曲げてしまったたため、それ以来私もクリスマスプランを考えているのだが、元のモチベーションがその程度なので何も思いつかない。家を飾り付けて酒を飲む、餅を啜る、日光浴をして酒を飲む、そのあと蕎麦を手繰る、などの提案は即時却下された。

 

夜の街をあてもなくぷらぷらしたのち、つばめグリルへ入った。

つばめグリルは好きだ。安くはないけど美味しいし、気楽にいいものを食べた気分になれる。

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ビールがすごい陶器のカップで出てきたが、冷たくて美味しかった。

仕事の話やすぐに揮発してしまうようなくだらない話をしながらを食事を楽しみ、そういえば久しぶりにデートっぽいものをしたな、と思った。

結婚して一緒に暮らしているとデートの非日常感はどんどん薄れていくもので、それはそれで幸せなことでもあるとは思うのだけど、どこか淋しさも覚える。2年以上一緒に暮らしているとそんなものなんだろうか。

だから、たまにはこういう夜があってもいい。

こういう小さな幸せの積み重ねを大切にしたいと思った、いい夫婦の日だった。

呪いの家、ビニールの窓

今週のお題「防寒」

 

家は海の街にあるしがない一軒家で、誰も愛着がない。

私が幼い頃に、当時住んでいたアパートから一軒家に引っ越そうというので、中古販売の家を母と不動産屋と回っていろいろ見ていたのだが、ある日突然、今の家に決まっていたので驚いた。

一度も見学をしていない家だった。そこに父が勝手に決めてしまったのだ。

それで父と母は大喧嘩し(当然だ)、だけども経済力が0だった母はどうすることもできず、このようにして私たち一家は、いまの実家たる海の街の一軒家へ引っ越したのだ。

23年前のことだ。

 

23年前ですら築20年近く経っていたので、今はもうそれなりに古い家だ。

どこもかしこも酷い有様で、雨が降れば出窓に滝のような雨漏り、まともに開く窓は家じゅうの窓の半数以下しかない。壁には亀裂が入り、塀は潮風で腐り、庭は悲しくなるほど荒れ果てている。

疫病神たる父がなんとなくで決めた家らしい有様だ。おまけに父は死んでいるので責任も取れないし、死んだ人間から金はむしり取れない。死んでも金を払い続けるべきなのだ、あいつは。

遠目に見れば古い家、近くで見れば廃墟然としたこのボロ屋に、一見救いはないようだが、ほんとうにどうしようもなくて、今は母と妹と2匹の猫が暮らしている。

 

窓が半数以上、まともに開かないと先ほど書いた。

直せばいいのだが、これを直せないのは、なんか特殊な作りの窓らしくて対応してくれる業者がおらず、建設会社に直接言うしかないからだ。

さらに悪いことにこれが違法な会社であるらしくて(私の実家は違法な会社によって建てられたのだ)修理には法外な値段がかかり、誰も対応してくれないのだ。そんなことがあっていいわけがないのだが、そんなことになっている。

割れている窓もあるし、隙間が空いたまま動かなくなった窓もある。そういう類のものはガムテープや養生テープで固定して風が入らないようにしているのだが、風呂場の窓はどうしようもない。

湿気でテープは剥がれてしまうし、こちらの窓もあまり例を見ない作りをしていて、もうどうしようもないらしく、違法建設会社の法外な修理費用にどうすることもできず、今はガムテープを重ね貼りしたうえに梱包材のビニールを張って、なんとか過ごしている。

これが、まったく断熱もできないし、風は入るし、しょっちゅう剥がれるしで、まるで意味がない。古事記を英訳したものを現代語訳するくらい意味がない。

しかも、なぜかわからないのだが私が半年に一回くらい帰省するまで母も妹もそれを「直せない」とか言って張り直すことをせず、「寒くて凍えて可哀相な老婆と娘」を演出している。意味が分からないので、勝手に震えてろ、といつも言い放っている。

 

これが、まぁ、今日のテーマたる「防寒」なのだけど、全体としては呪いの家の紹介をしただけになってしまった。

帰省するとこの呪いの家のせいで気を病んでしばらく引きずるので、できれば遠くへ離れていたい。

母と妹と猫は人生を変えたいのなら引っ越すべきなのだ。もう半分くらい地に沈んでいるあの家と心中する必要はない。

 

ひとつだけ救いがあるとすれば、猫たちが可愛いことくらいか。

『君の名は。』を見た!やっと!

マプラで配信されていた『君の名は。』をやっと見た。

映画館でやっていた当時は、この映画がすごいブームになって毎日のようにテレビで前前前世が流れており、天邪鬼な私は「ぜったいに見るものか」と倦厭していたのだった。

ブームになってメディアに消費されすぎると、ぜったいにそのコンテンツとは関わりたくない!と思う人は案外多いのではないか。

自分でもなぜそうなるのかわからない。流行に乗る人々を馬鹿だとは思わないし、好きにすればイイと思うけど、自分はその流れに飲み込まれたくない、と頑なになってしまう。

たぶん、メディアとか大きな流れに押し付けられるのが嫌なのだ。感動する作品!と言われると、自分が感動しなければならないと思ってしまって、実際に見て抱いた感想が自分のものではなくなる気がしてしまう。みんな見てるから自分も見よう、という気持ち、そこに自分の意思はなくて、その行動が嘘のように感じる。

一定数いる、私のようなそんな人たちのために、メディアは過剰に取り上げないでほしい。

君の名は。』もそのひとつ。

当時の私は、そういうわけで、絶対に見るものか、と決めて、今日まで来たのだった。

 

そんなわけで、ほとぼりも冷めたので、ようやく見ることが叶った。

男女が入れ替わる話ということしか知らないでいたので、自分でもよくここまでブームになっていながらネタバレ喰らわずに来れたなと思うモノだが、ネタバレせずに見れて本当に良かった。たしかに、いい映画だった。

いい映画だったけど、SFとかフィクション慣れしていない人には結構難しかったのではないだろうか、と今更ながら思う。2016年の上映当時はどうだったのだろう。そこそこ難しい構造の内容で、よくあそこまでブームになったもんだ。一度見たことのある妻でさえ隣でちんぷんかんぷんになっていたので都度止めては説明し、見終えた頃には「数年越しにようやく意味がわかった」と納得していた。

フィクションへの造詣がある程度ないと、話の要素の一つ一つに目がいってしまって散漫になり、理解するまでにまとまりを欠いてしまうだろう。

 

新海誠監督の作品は、かなり前だけど、いちおう『言の葉の庭』と『秒速5センチメートル』は履修済みだ。

まずあの美麗な作画だけでも充分に楽しめるのは、アニメとして重要なファクターで、アニメ冥利に尽きる。『言の葉の庭』なんてまさしく雨を描きたかったんだろうな、という意志を強く感じた。

そして相変わらず主人公はいつもなにかを探している。

君の名は。』も探す物語だった。

失ったものを探しているのか、未発見のものを探しているのか、ほんとうはもう手の中にあるのに見えないでいるだけなのか、とにかく「探す」のが3作品見てきた特徴だ。『天気の子』と『すずめの戸締り』もなにを探すのか注目して見てみよう(あと新海誠監督は歳の差カップルがマジで好き)。

 

君の名は。』を見ながら、村上春樹の『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』という短編小説を思い出していた。

男の子が、交差点ですれ違った「100パーセント」の女の子に目を奪われて、僕たちは実は前世から知り合いで愛し合っていたけれど、悲劇的な結末で前の世界では別れてしまい記憶も失ってしまっているんだ。でも魂はいまの世界でもたしかに繋がっていて、こうして偶然にも交差点ですれ違ったんだよ、僕は君を見て思い出したんだ、ここで出会ったのは必然的な運命なんだ、と声をかけるんだか、思うんだか、忘れてしまったけど、とにかく自分の中に沸き起こった100パーセントの気持ちをぶつける、出会いのお話。

君の名は。』も出会いの物語だ。

あれだけお互いを求め、心を通わせた二人が、映画の最後に言った「君の名は?」というセリフ。

記憶もないし名前もわからないけど、どこかで繋がっていたことをたしかに憶えている二人の、これは、出会いの物語なんだ。

出会ったその日から、まるでずっと前からお互いのことを知っていたかのように思える、そんな友だちやパートナーがいる。

運命の人、と言ってしまえばそれで終わってしまうかもしれない。

でもその、運命とも思えるありがちで使い古された「出会い」の物語を、この映画はSFを交えて純に描ききっている。

そのストレートさがたまらなかった。

インターネットを使えばいつでも誰かと出会える時代であり、都会では人が密集しすぎ、田舎では濃度が高くなりすぎる時代だからこそ、運命的な出会いというストレートで純なストーリーを描いたことに意味があったと思う。

 

もっとはやく見ておけばよかった。

メディアは押しすぎると、ひとりの人間の鑑賞機会を奪うことになるんだから、気をつけた方がいい、マジで。