蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

エクレアを食べるたび僕が思い出す香り

 僕の部屋は妹と共有で、まじで最悪なんだけど、それはまあお互いさまということで、祖父が死んで部屋が空くまでは我慢するしかなく、祖父が死ぬくらいなら妹と同じ部屋でいいかなぁというか仕方ないというか、でもやっぱり部屋別にしたいなと思っているうちに僕はずるずる中学2年生になってしまい、妹は小学5年生になって祖父は83歳になった(ついでに母は45歳になった)のだが、初夏のある日、僕が部活から帰って有象無象の散乱する妹の勉強机の上にサンリオキャラのあしらわれた正方形の一枚の小さいメモがあるのを発見できたのは、妹と部屋を共有していた恩恵であるから、豈(あ)に同じ部屋を憎むや(いや、憎むわけがない)、といった次第である。僕は自然の成り行きとしてそのメモを盗み見た。
  
   そうたへ
  ♡♡♡♡♡♡
  今度の、お昼休み、いっしょに、あそぼ?
  校ていの、はじの、大岩は、すずしいよ。
  今度、さそうね。
  ♡♡♡♡♡♡
   かえでより

 へぇ~!思わず口笛を吹きたくなった。だってそうだろう。これは、ごく簡潔ではあるが、まごうことなきラブレターだ。ハートが12個も羅列してあることが妹の想いを物語っている。
 そうかそうか、あの妹がついに恋をしたか、と感慨深く思うと同時に、あの妹も恋心というものを持っていたのだな、とちょっと不気味に思った。
 妹は年齢のわりに言動が幼いところがあり、加えて、机の上が廃墟のように荒廃していることからわかるように片付けができないし、勉強机がそんなんだから勉強などできるわけがないため、必然的に頭が悪く、また、鉛筆の握り方も正しくないので一般的な小学五年生の女子に比べて字が恐ろしく汚くて、鉛筆を口に咥えて書いてるんだろと揶揄すると「ふぎーっ!」って怒ってアラビックヤマトや粘土工作やトンボ色鉛筆を投げつけてきて、くわばらくわばら、悪うござんした。と僕は退散するしかない。妹をからかうのは面白い。
 そんな妹が、恋をしたのだ。そうた君もたまったもんじゃないよなぁ。

 リビングで家族とテレビを見ながら夕飯を食べているときも妹が気になってしまう。こいつ、恋してやがる。そう思うとおかしくてしょうがない。気にして見ると、妹はいつもより箸が進むのが遅いし、やけにため息が多いようだった。恋で胸がいっぱいなのだろう。
 草ァ!
 ふとニヤけている自分を見て、妹が顔を顰(しか)めた。
「キモい」
「なんだよ」
「うちのこと見て笑うなし」バレてた。
「見てねぇよ」
「見てた」
「誰がおめーのキモい顔見るかよ」
「うざ。キモいのはおめーだろ」
 ぐうの音も出ない正論なので、僕はせめて「ぐう」と言った。
「今の声キモいわぁ」妹は咀嚼物(そしゃくぶつ)で汚れた口内を露わにして眉を顰(ひそ)め、半泣き笑いのような複雑な表情をして箸で僕を指し、「ぐう」と愚者が胃痛を患ったような声を出して、からく笑った。ケタケタケタ。
 うぜぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええ。「ぐう」で終わりしようと思っていたのに妹がそう煽るから僕もカチンときて「笑ってたのはテレビ見てだよ。おめーのアホ顔見て笑うか普通」言い放つと、妹は「うちアホ顔じゃねーし。あんたの方がよっぽどキモい顔してっから。臭いし」と思春期の僕がめちゃくちゃ気にしてることを言ってきたので僕もキレて「臭くねぇわ。シーブリーズやってっから」「それが臭いっつってんの」「は?良い匂いだろうがボケ。おめーこそなぁ、食べ方汚いんだよ。箸もまともに持てないのか。そんなんだと人様にうちの教育がなってないと思われて家の名が汚されるわ。勉強もできないしよぉ。くだらない音ゲーばっかやりやがって」「デレステ馬鹿にすんのだけは許せない」「話の焦点はそこじゃねぇだろ馬鹿」「馬鹿って言う方が馬鹿なんです」「じゃあおめーも馬鹿だな」「はい、馬鹿」「馬鹿」「糞」「汚ねぇ」「ニキビ」そこはほんとうに僕が気にしてることだから言っちゃいけない。お前は言っちゃいけないことを言った。「ンナッハッハッハッハ!」テレビで浜ちゃんが爆笑し、それがまた煽ってるみたいでムカついたのに、なんだか何も言い返せなくなっちゃって、僕が言葉に詰まると妹が「勝った」みたいな感じでほくそ笑み、マジで、マジでキレて「くそ死——」と言おうとしたところで祖父が、
「うるせぇ!ガキども!」
と、泡盛のグラスをテーブルに叩きつけた。僕と妹は萎縮した。母はやれやれって感じでご飯を頬張っていた。
 祖父は自分のコロッケを半分に分けると、大きい方を僕に、小さい方を妹の皿に黙って渡した。そして泡盛を一息にあおると、千切りキャベツをドレッシングもかけないでむしゃむしゃと牛のように咀嚼していった。
「ンナッハッハッハッハ!」やけに大きく笑い声が響いた。

 喧嘩しても戻る部屋は同じだから気まずい。僕は二段ベッドの上に寝そべってジャンプを読み、妹は山賊が荒らした後のような机でデレステをやってた。
 いつもは涎を垂らしながら嬉しそうにタップしているのに、今日はなんだか様子が違って、やはりため息ばかりつき、ゲーム成績もよろしくないようだった。オープニング画面の音楽がしばらく垂れ流されていたので、なんだと思いベッドの格子から覗くと、妹はあの正方形のラブレターを、小さい背中を丸めて見つめていたのだった。
 首を捻ったり、頭を掻いたり、髪の毛を抜いたり、そしてまたため息をついた。そのうち新たなメモ用紙に、色ペンを用いて時間をかけて文章を書き出し、書いては捨て、書いては捨て、ため息を吐き、また書いては捨て、ため息を吐いては繰り返した。
 結局、綺麗に書くことは諦めたようで、最初に書いた正方形のラブレターをランドセルに仕舞った。
「はぁ。風呂入るね」妹はそう言うと部屋を出て行った。
 ため息の数だけ束ねたブーケ、って昔の歌にあったけど、それが本当ならこの部屋は花束で埋まっているな。
 僕は妹をからかいのつもりで嗤(わら)ってやろうと思ったけど、どうにも口角が上がらなかった。
 妹は本気なのだ。
 夕食のときの僕は妹よりよっぽど子どもじみた兄だった。僕は自分を嗤いたかった。引きつった口角は自然と下がった。

 翌朝、妹はパンを少しだけ齧って、手が止まった。
「食欲ないわね」母が言った。
「もういいや」妹はランドセルを重そうに背負うと「いってきます」とため息交じりに言った。
 妹は置き勉して教科書を持ち帰っていないのでランドセルがびっくりするぐらい軽いのだが、今朝は重そうだった。どうやら妹の恋と一枚のラブレターはそれなりの重さを持っているらしい。真っ赤なランドセルが妹の背中にしがみついて肩肉に食い込んでいる。
「暑くなりそうだから水分摂れよ」僕がどうしてそんなことを言ったのかわからないが、妹もわからなかったらしく、しばしきょとんとした。
「うん。ありがと」そう小さく言うと妹は玄関を走って出た。
 妹に初めてありがとうと言われた。今度は僕がきょとんとする番だった。
 母は僕たちの会話をきょとんと見ていた。祖父は妹が出ると、ZIP!からエネーチケーの重たいニュースにチャンネルを回し、安倍政権にあれこれと文句を言い始めた。

 その日一日、授業中も妹のことが気がかりだった。
 あのラブレターを渡せただろうか。どうやって渡しただろう。
 下駄箱に入れたのだろうか。
 あるいは友だちに頼んで渡してもらったのだろうか。
 机の中に入れておいただろうか。
 どんな顔で渡しただろう。笑っただろうか。笑われただろうか。
 笑われててもおかしくないな妹のことだから。僕だったら笑ってしまうかもしれない。そんで笑ったら、妹は、あはは冗談冗談なんでもないのと言ってどこかへ行ってしまうだろう。そのどこかで、人知れず涙を流すのだ。
 部屋では泣けないから、風呂場か2階のトイレで。
 別に、妹の恋がどうなろうと知ったこっちゃないし、はっきり言ってどうでもいい。僕は「あの妹」が恋をしたことがおかしくてしょうがないのだ。あの野蛮人が、北京原人が、白浪海賊団女頭領が、恋をしたのだ。
 ふん。おかしくてたまらない。
——と考えていたら先生にあてられて、僕はどこを読めばいいかわからず怒られてしまった。ぼーっとしてるからだ。バスケ部の友だちに笑われた。ぼーっとしてた僕が悪い。妹のことなんてほっとけ。
 どうでもいいどうでもいいどうでもいい。泣こうが泣かれようが、笑おうが笑われようが、どうでもいい。僕はクラスで恥をかいたんだ、その方が悲しい。悲しすぎておかしい。あー滑稽。ちくしょう。
 妹もおかしなことになっちまえ。そうしないと僕の恥に見合わない。

 でも、思うのだ。
 トイレで泣いてたら、ちっとも面白くない。と。

 部活が終わって昨日と同じ18時過ぎに帰宅した。外から僕たちの部屋を見たら明かりが点いていなかった。
「おかえり。もうすぐご飯だから待ってて」母が魚を焼きながら言った。
「うん。かえでは?」
「帰ってるわよ。随分早く帰ってきた」
「そっか」僕は靴を脱いで、急いで階段を上がった。
 部屋の明かりを点けて、まず僕は驚かなければならなかった。妹の机の上が(それだけじゃない。部屋全体が)見事に片付いていたのだ。塵一つない。昨日まで、いや、今朝までは机の使い方を知らない未開民族みたいな惨状だったのに、ノートと教科書は棚に収められ——ここでもう一つ驚いたのは、教科書とノートを持ち帰っていたことだ——、鉛筆は綺麗な二等辺三角形の先端で揃えられ、机の落書きも消されていた。ありえないことだった。
 不審者が来て片付けていったのだろうか?そう勘違いしても仕方がない出来事だ。いつも脱ぎ散らかしている服も畳まれていたし、ベッドもきちんとメイクされていた。あり得ない。天変地異か?
 妹にどんな心変わりがあったのか決まってる。
 「うまくいった」のだ。
 そうた君が妹の想いを受け取ってくれて、気をよくした妹は自ら生まれ変わろうと、生活を改めたのだ。
 と、思えれば良かったのだが、そうは思えなかったのは妹が部屋にいないことだ。まさかベッドの下にいまいと思い覗いたら、やっぱりいない。ベランダにもいない。デレステの入ったスマホも置きっぱなしだし、ランドセルもきちんと机の横にかかっている。部屋は不気味なほど片付いていて(僕のベッド以外は)、まるでホテルの客室みたいにどこかよそよそしかった。
 奇妙な静けさを備えた部屋をぐるりと見回す。ゴミがまとめて入れられたセーラームーンのゴミ箱が目に入った。燃えるゴミも燃えないゴミもとにかく突っ込まれたその上に、見覚えのある正方形のメモ用紙があった。
 紙は一度丸められたのだろうか、しわがついて折れている。折れたため、「そうたへ」と「かえでより」が接近している。ハートの羅列が曲がっている。汚い文字がさらに滲んで歪んでいる。多すぎる句読点が涙の染みみたいに浮かんでいる。
 奇妙なほど整頓された他人行儀で静謐な部屋に、廊下の隅のトイレから、鼻をすする音が、よく聴こえる。

 僕は堪らない気持ちになって、小銭を握りしめて、転がるように階段を下りて、靴を履いた。
「ちょっと!もうごはん!」母が言った。
「セブン行ってくる!すぐ帰る!」
 僕はコンビニまで夢中で走った。走ることしかできなかった。小銭が右手の中で暴れた。
 
 僕はコンビニまで走った。
 妹が好きなエクレアを買うのだ。
 おかしなことだ。妹にこんなことをしてやる自分ではなかった。今朝妹に「ありがと」と言われたことと同じくらい、妹が部屋を片付けたことと同じくらい、おかしなことだ。
 そして、面白くないことだ。
 僕が兄として妹にしてやれることは何だろう?かつて野蛮人で北京原人で白浪海賊団の女頭領だった妹に、言ってやれることは何だろう?
僕には走ることしかできない。
 僕は昼間の恥をすっかり忘れて、妹のために、エクレアを買ってやるために、走ることしかできなかった。
 初夏の宵は誰も知らない温度の風を運び、僕の頬を、耳を、首筋を、胸をさすった。それは少し塩辛くてやわらかな匂いだった。