蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ロックだったあの頃

 昔、バンドをやっていた。
 中学の友だちと高校になってバンドを組み、私はギターボーカルで作詞作曲した曲を恥ずかしげもなく下手くそに歌っていた。孤独と愛と平和。永遠のテーマを。
 でもメンバーはそれぞれ違う高校に通っていたので平日は集まれず、各々その高校の軽音楽部に所属して技術を学んだのだが、私にとってその軽音楽部というものはどうもイケズな社会で、なんでかっていうと、自分の好きな音楽を聴いている人がいなかったし、誰もロックな精神を持っていなかったからだ。

 当時、十五歳の蟻迷路少年が聴いていた音楽とはなんだったか。
 邦楽ならandymoriくるり神聖かまってちゃんスピッツbloodthirsty butchersYMOかぐや姫さだまさしユーミン森田童子、たま、ジッタリンジン電気グルーヴ、洋楽ならThe Beatles、あとはカーペンターズ
 私の聴いていた音楽は偏っていた。
 スピッツとかandymoriくるり神聖かまってちゃんくらいは知っている人いたけど、バンドカバーしたい!ってくらい好きな人はいなくて、大抵はバンプ、ラッド、バックナンバーとかそのへんのもろもろを皆さん勤しんでコピーしていた。
 私の好きな音楽は偏っていた。
 だから、40人くらいいた部活なのに、話の合う人が一人もいなかった。「神田川」の歌詞がメロディにノったときの叙情たまんないよねとか、「関白宣言」は「関白失脚」も含めてひとつの作品だよねとか、カレン・カーペンターを喪ったのは人類にとっての損失だよね、といった話をできる人がいなかったし、皆はバンプがどうしたとかラッドがどうしたとかそういった話ばかりだったので、私は肩身が狭かった。
 それでもなんとかウマの合うバンドに入れてもらい、一年半くらいはそのバンドで私好みの曲を練習しライヴをやった。のだが。

 私はメンバーに愛想を尽かした。まったくロックじゃないのだ。
 なんとなく練習して、なんとなく合わせて、やったーうまいうまい、なんて言って、でもライヴはちょっと恥ずかしいね、なんて言って、そうだね、パズドラでもやるかなんつって、私はストレスで死にそうだった。
 メンバーがパズドラをやっているとき、私は自分の思い描くロックを貫くために、こっそり弾き語りの練習をし、「うまくやる」のではなくいかに自分が気持ちよく自分の感情を表現できるか追及し、どうしたら社会に一泡吹かせられるかと、とぐろを巻いていた。メンバーにロックとはかくあるべきだ、ってなことを吹聴し、独り悦に入っていた。
 若かった。
 私はそのバンドにいられなくなって、辞めた。
 今思えば、私はロックだったのではなく、単に社会不適合者だったのだ。自分を曲げず、譲歩せず、歩み寄らず、思いやらず、他をはねつけて、ガキだった。
 でも、誰よりもロックだったのだ(涙)

 引退前の最後の文化祭で私は無理を言ってワンステージ貰い、ギター一本で弾き語りを決行した。
 見てろよ、おれがロックなんだ。おれこそがロックンロールなんだ。
 私が大好きだった「『いちご白書』をもう一度」や「神田川」、そして自分の作ったバラードを熱唱した。
 観客は熱狂。踊り狂い器物を破壊。ステージに上って共に熱唱する輩や腰を振って涙を流したり、禁止されている薬物を撒いたり、そんで皆で涎を垂らしたり、もう大騒ぎでなにも覚えてない。

 嘘だ。

 実際は、秋の瀬戸内海のように静まり返っていた。
 観客たちの「なんだこいつ」って目を忘れない。
 それ以外はイタイ思い出だからだろうか、なにも覚えていない。なにも覚えていないことだけは本当だ。
 ぽかんとする観客。冷たい目。そりゃそうなるわ。さっきまでギンギンのエイトビートでドンドコやってたのに、いきなり秋の瀬戸内海なんだから。
 本当のロックを見せてやる!おれこそがロックンロールだ!
 そう息巻いてステージに上った私が演(や)ったのは、何を隠そう、
 ド定番のフォークソングだったんだから。


 この後、私は本格的に中学バンドを始動させ、てんやわんやの日々を送ることになるのだが、それはまた別の機会に。