蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

十代の魔法

 親にもおじいさんにも偉人にも天皇陛下にも内閣総理大臣にも、この文章を読んでいるあなたにも、そして私にも、十代の頃はあった。
 十代はケツの青いガキどもが狭い世界でこの世の春と言わんばかりに欣喜(きんき)と躍動の時代を謳歌しているからなんて言われているけど、人によっては雌伏(しふく)の時期だったかもしれないわけで、そういう人は二十代や三十代になって羽化し空を舞うものだとフィクションの世界では相場が決まっている。でも、現実は非情だ。だからフィクションがあるのだけど。

 十代の頃、私は音楽的な人間だった。
 毎日のようにバンドのために音楽を作り、作詞をしてウホウホ吠えていたニキビ面の少年であった。
 押せば出てくる心太(ところてん)みたいに、曲ができていた。鋭利な感性で、しかもちょっとしたことで傷つきやすいティーンの少年は、しかし、それを利用して音楽を作っていたのだ。
 絶対にミュージシャンになれると思っていたし、音楽を作ることは生きることの喜びだった。

 ミュージシャンにはなれなかった。
 なぜなら、二十代になって曲が作れなくなったからだ。
 アイデアは枯渇していないし、ギターが下手くそになったわけでも音楽が嫌いになったわけでもない。ただただ、作れなくなったのだ。どうしてなのかわからなかった。それくらいパタリと音楽を作る営みが、なんていうか「そぐわなく」なったのだ。無理矢理作ってみたりもしたけど、なんか違って、熱量とか震えるハートみたいなものが曲から感じられなかった。
 魂の枯渇。
 十代の魔法だったのだ。私はそう結論付けた。
 所詮、私が魔法のように曲を作れていたのは十代の魔法で、ミュージシャンになれるほどの「魂の強度」を持ち合わせていなかったのだ。音楽を作れば作るほど音楽のための魂は擦り減り、ついに消えてしまった。もうどうやっても修復不可能なようだし、エネルギーを供給してもそれを処理するだけの機能すら残っていない。
 悲しい。
 悲しかった。
 十代の魔法。思春期の傷つきやすい心が映し出してくれた、サイコーにくだらなくてサイコーに輝いていた、サイコーにサイコーでサイテーだった、大好きな映画みたいな十代。それを楽しむ能力も、鋭利すぎた感性も、傷つきやすかった心も、失われた。

 『めだかボックス』という漫画をここで紹介したい。
 主人公たちは超能力みたいな特殊能力を持っていて、学校に襲い掛かる強力な能力集団と戦う、というよくある学園バトル漫画だ。最終回は登場人物たちが二十代後半になってそれぞれの人生を歩み、十年ぶりに同窓会を開くという展開。(以下少しネタバレ)
 大人になった主人公たちはあの素晴らしい超能力をほとんど全員が失っていた。二十代になるとともに徐々に能力が薄れていき、消滅したというのだ。そうして「普通の」人生を歩むようになる。
 あの能力は十代の魔法だったんだ、なんてセリフがあった気がする。

 村上春樹だったら、この失われた十代の魔法を取り戻すために北海道やら四国やら地下世界やらに潜って冒険をしそうなものだけど、結局のところ一度損なわれた魔法はもう二度と戻らない、時々過去に触れてあの頃の熱に思いを馳せることでしか自分の心は癒せない、という結末が待っているに違いない。
 十代の魔法がもたらした栄光を、傷を、成功を、失敗を、二十代になった今受け止めて、そうして私たちは大人になっていくのだ。

 もう十代には戻れない。
 悲しいことかもしれない。
 でも、ひとつ言えるのは、私にとっては今の方がなんだか楽しいということだ。あの頃より自由だ。
 音楽という魔法を失った代わりに、文芸という新たな楽しみも見つけた。
 もしかしたら音楽は文芸にかたちを変えただけなんじゃないだろうか、と最近思う。音楽は失われたのではなく、形を変えただけなのだ。
 ああどうか、私から文芸の魂が枯渇しませんように。これが魔法じゃありませんように。