蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

パーフェクト・ゲーム

(読了所要時間:約10分)

 

 

 

 

 

 13ポンドの滑らかに回転する樹脂の球が、18.288m先で暗く静かに整列する乳白色のピンを8本弾き飛ばすと、僕一人しかいないボウリング場の孤独と静寂はいっそう深まった。

 だからボウリングは嫌いなんだ。

 僕はガラス製の冷蔵庫からバドワイザーを開け、一気に半分飲んだ。空き缶が半ダースそこらに転がっている。それは僕が「失敗した」数だけ、ピンの代わりに倒れていた。
 腕も指も痛い。肘から先の筋肉が熱く膨らんでいる。痛い。帰りたい。
 それでも帰らない、いや、「帰れない」のは、パーフェクト・ゲームすなわち300点を獲るまではこの状況から解放されないからで、どれだけ腕が痛かろうが、腹が減ろうが、母親が脳卒中になろうが、月が裂けようが、パーフェクト・ゲームを獲るまではこのボウリング場から出ることができないのだ。
 どうして?わからない。
 言っても信じてもらえないだろう。気が付いたら僕は7レーンと冷蔵庫にだけ明かりの灯った古いボウリング場にいたのだ。非常灯すら無い。窓が無いので外の様子もわからない。もちろんどこの扉も動かない。
 そして、なぜか僕は知っていたのだ。

 『パーフェクト・ゲームを獲るまではここから出られない』

 そういうわけで、僕はプロを諦めて以来、数年ぶりにレーンに立っているのだ。
 僕は7本目のバドワイザーを空け、半ダースの空き缶と同じ運命にした。よく磨かれた床に転がって、虚しい音が反響もしない。
 また初めからやり直しだ。
 まだバドワイザーは棚2つ分ある。大丈夫だ。ジンジャー・エールもある。オレンジ・ジュースもある。

 それから、「エル」も。

 大丈夫だ、と自分に言い聞かせるように何度も思いながら僕は13ポンドを戻し、紅色の12ポンドに変えて、再び第1フレームから8回目のゲームを始めた。

   ☆

 『滑り出しは好調だった』。
 こう書けばわかると思うけど、12ポンドをもってしてもダブルがせいぜいだった。
 プロボウラーを目指していたころは5連続くらい普通だったのに、今やダブルがやっとだから、プロを諦めて久しいけどつくづく自分が嫌になる。
 だから嫌いなんだ。
 20ゲームも重ねれば疲労でストライクを取るのも難しくなっていた。僕はバドワイザーを一口やる。それでも力を振り絞って投げると、ピンは泡のように弾け飛んだ。スプリット。僕の心を踏みにじる。

 『ストライクじゃなきゃ意味がない』

 わかってる。わかってるさ。僕はリセット・ボタンを押し、バドワイザーを飲み干した。今のところ、1ゲームあたり多くて四投、酷いと一投で終わる。
 こうして記念すべき20ゲーム目は三投で終わった。

   ☆

 36ゲーム目が終わった。
 バドワイザーは一棚分空けられ、あと20本しか残っていない。酔うと腕の痛みが和らぐのだ。
 無表情な10本のピンは頼んでもないのに整列して僕を侮辱的に睨みつけ、12ポンドの紅色のボールは虚しくなるほどけたたましい音を立ててリターン・ラックに転がり込み、無機質なハンド・ドライヤーに寄り添っていた。
 僕の指を見れば37ゲーム目は来ないことがわかるだろう。中指の関節が曲がって赤黒く腫れ、爪は根元まで亀裂が入っていた。握った空き缶が震える。アルコールのせいなのか、それとも麻痺しているのか。痛みは感じない。けれど、力が入らない。血塗れの指穴。とてもじゃないけど投げられない。
 限界だ。
 10ポンド球。球を転がすための象を模した滑り台。バドワイザー。僕はそれらを用意して、腰かけた。
 視界がさっきから歪んでいる。
 突然、吐き気を催した。ひどい耳鳴りがした。ジェットエンジンが頭の裏で唸る音。トイレに駆け込もうとしたが、間に合わない。
 耐えられず、12レーンのアプローチに冷蔵庫一棚分のバドワイザーをぶちまけた。エンジン音が少しずつ遠ざかる。もう一度、もう二度、ぶちまける。
 それ以上は何も出なかった。
 呼吸が落ち着くと、静かになった。アルコール炭酸水がさふさふ音を立てて床を浸していく音が手元から聞こえた。それをしばらく見ていた。
 そのうち泡が消えてしまうと途端に濃密で終わりのない孤独と、空っぽの大きな本棚を眺めているような虚しい静けさを湛えた空間に呑まれ、底なしの穴に落下するような感覚に陥り、叫びながら「エル」を2粒、祈る気持ちで、僕は震えながらバドワイザーで嚥(の)み下した。
 
   ☆

 10ポンドと38.1㎝のオレンジ色の10本の虹色の樹脂の球のごうごう転がる4分の3の拍子たるや。おれはもうすっかり、ルーシーになってた。
 そう、「える」ってLucy in the Sky with Diamondsのことさ。

  るぅすぃーぃんざすかぁああいうぃだーぃぁもん
  るぅすぃーぃんざすかぁああいうぃだーぃぁもん
  るぅすぃーぃんざすかぁああいうぃだーぃぁもん
  於婀婀婀婀婀婀婀婀婀婀

 象の滑り台は良い。力を入れなくても気持ちよく転がってくれる。曲がりくねったレーンをなぜか真っ直ぐに転がっていくさまはこの世の奇跡だ。
 ごぷごぷごぷ、と赤褐色のピンがこぼれると、それはストライク(笑)だった。
 於婀婀婀婀婀婀婀婀婀婀!!善哉善哉ッ!パーフェクト・ゲーム!イケますゾぉ~!象さん蔵さんおぉおお花が永いのネッ!そおオおおよッ!母さんもぉナぁぁあああがEのヨぉぉおおおおお!!!あとイレブンでパーフェクツ!
 もっともおれは既に。パーフェクツ。に。なッちまッてんスけどね(笑)。
 だってほら。割れた爪。が。くすぐったい。括弧笑。

  ☆

 しかし、すぐに、いつも、ストライクが獲れるわけではなくなってしまって、おれは、この世の真理を、見た気がしたけど、いつになくハイで、挫けずに、そう、挫折しても立ち上がる主人公のように、何度も何度も、笑いながら、時には雲のように揺れながら、あいみょんとか、明るい曲を口ずさんで、明るさを心掛けて、頑張って、青い象の鼻を使って、350ポンド分の球を転がしたけど、愈々(いよいよ)、ストライクが取れたのはもう遠い昔のようで、十代の頃、プロボウラーを目指すきっかけになった、まだ母さんが生きてた頃、弟と3人でちょっと贅沢して、初めてのボウリングにワンゲームだけ遊びに行って、おれがターキーを獲ったあの日のこととか、母さんが笑って褒めてくれて、弟が尊敬してくれて、夕飯が大好きなコロッケだったあの日のこととか、帰り道に痛かった腕を、母さんがさすってくれたあの日のこととかを、思い出して、そう、それからおれは、少ない小遣いを貯めて、月に一回だけワンゲームだけ練習して、高校生になったらバイトして、バイト代をすべてボウリングにつぎ込んで、どうしてそんなに熱中したかって、無能なおれが唯一、他人から褒められたからで、だんだん有頂天になって、天才だと言われたくて、コンペのお金が欲しくて、そのうちアマチュア界隈でぶいぶい言わせたくて、格好つけることばっかで、努力を怠り、おれは単なるボウリング場でバイトをする、ちょっとボウリングの上手い人になっちゃって、素人の癖がついたおれにプロは絶望的で、グレて、そうなると母さんは、おれのことを悲しい目で見てて、それがまた嫌で、不良仲間に「エル」教えてもらって、10年前24歳だったおれが「エル」で弾みをつけて仲間と西新宿のライブハウスを浮遊しているときに母さんは脳卒中で死んだ。

 嗤ってくれ。

 底なしの穴に落下していくおれを僕は見ていた。涙が砕けた。
 おれは残りの「エル」を砕いて吸った。
 致死量だった。けれどそれは祈りだった。

 もう一度、チャンスをください。

  ☆

 おれは7レーンのアプローチに倒れた。

   ☆

 永い夢から強烈な指先の痛みで目を覚ますと、そこは吐瀉物(としゃぶつ)と不快な臭いで汚れたボウリング場で、静謐さと暗さと倒れた象と磨かれた床の広がるがらんどうの孤独感が僕を現実に引き戻し、まだ「ゲーム」が終わっていないことと、これが夢ではなかったことを認めさせた。股間が濡れていた。
 起き上がり、冗談みたいに明るい冷蔵庫の前に佇んだ。オレンジ・ジュースを少しずつ飲んだ。どれだけ飲んでも喉は潤わなかった。
 冷えたベンチに腰掛け、煌々とした7レーンを眺めた。子どもがボウリングをしていた。驚いてぎゅっと瞬きをすると、消えた。
 「エル」は袋ごと消えていた。

  ☆
 
 そうだ。僕はバッド・トリップしてかなり危険な量を服用したんだった。あれからどれだけ経ったのだろう。窓も時計もないのでわからない。
 とにかく僕はまだボウリング場から出られていない。頭痛、指の痛み、断裂した筋肉、渇き、吐き気。
 痛みは現実だった。現実である以上、僕はここから出なければならない。
 そして、出るためにやるべきことはひとつしかない。10本のピンが僕を睨んでいた。
  
   ☆

 穴に指を入れずアプローチに構えた。
 震えながら両手で抱え、川に大きな重い石を投げ入れるように、ボールを放った。構えた時点でわかってはいたが、明らかに駄目そうだった。やけくそだ。
 しかしどうした奇跡か、勢いもなく重い音で着地したボールはごそごそと老人の咳のような音で転がりながらも、着実に、導かれるように、吸い込まれるように1番ピンと3番ピンの間に転がっていき、ゆるりとしたストライクをスコアボードに刻んだのだった。僕は呆気にとられた。
 それだけじゃない。奇跡は三連続で続いた。ターキーの明るい文字が踊る。信じられなかった。

 踊る文字を見た瞬間、僕は「あの日」を思い出した。

 初めてボウリング場に入った「あの日」、ワックスのにおい、ピンが弾ける騒音、ボウリング・シューズ、球の重さ、触り心地、模様、整然と並んだピン、隣のレーンのおじさんを真似て構えた7レーン、後ろで応援する母さんと弟、よろけそうになる上半身、踏ん張る下半身、黄緑色のボールが音になって光になって突き抜けた人生の第一投、三連続の奇跡。
 僕は「あの日」の緊張と興奮と感動を思い出して、「あの日」と同じ7レーンで立ち尽くしていた。

 そうか。ここは。
 僕は「あの日」にいた。

 僕は「あの日」の僕になっていた。たとえひどいガーターになったとしても、今なら楽しめる気がした。僕は勢い、投げた。それだけで不思議と楽しかった。
 僕は小気味良く肩を揺らし笑った。本当にガーターになったのだ。しかも二投とも。スコアボードはでかでかと「G」を表示した。初めて心から笑った気がした。
 僕はリセット・ボタンを押さない。

 『最後までやろう』

 楽しくて仕方ない。
 第5フレームの第一投は4番と9番が残った。第二投で9番だけが闇に呑まれた。4番は運が良かった。
 このゲームは「G」を刻んだときから意味を失っている。既に「パーフェクト・ゲーム」は失敗したのだ。これ以上やっても体力と時間の無駄だった。
 それでも僕は投げ、スコアに一喜一憂した。スペアも嬉しかった。投げるほど自信が湧いてきた。もはやゲームは「意味」や「目的」ではなかった。

 楽しい。それだけだ。

 そして運命の第10フレーム。ストライクを2回かスペアを獲れば、三投目を投げられる。不格好なフォームのコツも掴めてる。
 一投目は6本倒した。スプリットにはならなかったけれど、僕はどうしても3投目をやりたかったので4本も残ってしまったことが悔やまれたが、1本残して狙いにくくするよりかずっとマシだと思えたらスペアを獲れないわけがないと自信が湧いてきた。大丈夫だ。僕は自分に言い聞かせる。
 「大丈夫だ」
 自分の声を初めて聞いた気がした。
 第二投。運命よりも必然的に、スペアを獲った。
   
   ☆

 三投目を投げ終わると、スコアが集計された。300点には遠く及ばない点数だった。けれど、僕は満足していた。
 「パーフェクト・ゲーム」としては失敗だったけれど、初めて最後まで投げきった心地よさが指先の痛みを愛しく思わせ、頭の疼きを治め、視界を清澄にして、その一つ一つが体を軽くし、股間の冷たさにすらも慶(よろこ)びを見出して、僕は笑っていた。

   ☆

 背後で、がちゃん、と音がした。扉が開いていた。
 僕はそれで、ここから出られることを知った。

   ☆

 「パーフェクト・ゲーム」は僕の勘違いだったのだ。僕は最後にして初めて第10フレームの第三投までやりきることができた。それだけでよかったのだ。

   ☆

 外は夜で人通りは一切なかったが、それが僕の濡れた股間にはありがたく、疲れ切って踏ん張りの効かない足を軽くさせ、なんだか夢心地みたいな気分で、そういえば指の痛みも消えていた。心地よい夜風。美しい街灯。浮遊感。
 ふと見上げる夜空。

   ☆

 月はスプリットして裂けていた。

 

 

youtu.beThe Beatles-Lucy in the Sky with Diamonds