蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

スリッパ屋なんてこの世にあるのだろうか

 リッパが好きで、自宅ではもちろんスリッパを履いているし、他人の邸宅や旅館やちょっとした料理屋に行って靴を脱いだ時も、スリッパがあれば、お、どれどれ、履いてみるかな、なんて多少浮ついた気持で履いてしまう程度にはスリッパが好きだ。
 

 ここまで書いたところで、私のキーボードを叩く指が停止した。かれこれもう10分、あれこれ関係ないことを考えて欠伸をしたり頭を掻いたり陰嚢を揉むなどしている。
 スリッパについて書くことありますか?
 専門家じゃあるまいし。スリッパの専門家なんているの?

 でも、愚痴っても仕方がないので書きます。


 どうしてスリッパが好きかと言うと、あれは履くと落ち着くからだ。
 小学生のときはスリッパがむしろ嫌いで、拘束具のようなものだと捉えていた。足が小さかったからすぐ脱げるし、日本はせっかく玄関で靴を脱ぐのにそこでまたすぐ室内履きを履くなんて、アホなんじゃないかと思っていた。
 アホなんだろう。
 でも、嫌いじゃないアホさだ。大人になった今、スリッパを履くと落ち着くし、冬は防寒になり、オールシーズン防具にもなり画鋲や米粒やレゴを踏んでも痛くない。室内にも脅威は潜んでいるから、それなりに合理的な選択だと私は思う。
 エヴァンゲリオンの装甲は防具ではなく拘束具だったが、スリッパの場合逆だ。

 靴を脱ぐところにスリッパ有り、ということわざがあるように(ない)、街のいたるところにスリッパはある。いたるところ、という表現は過言であったが、それでも過言ではない。
 また、スリッパの質によってその店や施設の「程度」をある程度知ることができる。ボロスリッパに足元を見られ、ということわざが示すように(示さない)、底の剥がれたくたびれたスリッパを出す旅館は安く泊めてくれるし、そのへんの靴よりも履き心地の良いスリッパを出す旅館では、家族や大切な人と折に触れて訪れて、上質でゆったりとした時間を過ごして温泉で癒されるのが良いとされている。
 ……。


 本当に書くことがなくなったので、以下、嘘を書きます。

 

 


 日、僕は恋人とスリッパ屋へ行った。
 同棲を始めて1か月、ようやく家具も揃い生活のリズムにも慣れてきて、ピカピカで整った生活が滞りなく進み、同棲を始めて懸念されるセックスレスもなく、彼女はずっと美しいし、僕は毎日ちゃんと体を鍛えて髭を剃り髪の毛を整えていて、一切万事快調に動いていると思っていた。しかし、憧れていた同棲だったから本当に嬉しいし毎日が幸福なのだけれど、どこか不自然?なところがあって、なんだか二人でいることがそぐわないというか、いや、違うな、「二人でこの部屋にいることがそぐわない」ように感じて、そのことは恋人も感じていたらしく、その原因が巡り巡って形を変えて事柄として顕れてくるようになり、ついちょっとしたことでお互いに衝突して、空気がいびつになってしまい、すぐに仲直りするのだけれど根治はしなくて、愛情がなく、いよいよ僕たちは終わりなんだろうか、なんて思い始めていた。すると、彼女が言った。
「スリッパがほしいの」
 僕は、ハッとした。そうだ。この部屋に何が足りないって、愛情じゃない、スリッパがそもそも足りていないじゃないか。
 家具や食器や調理具やタオルに比べたらスリッパを揃える優先度は格段に低いが、生活の中ではかなり必要なものだ(スリッパがないせいでレゴを踏んで死ぬかもしれない)。
 だからそのうち買えばいいか、と考えているうちに忘れていたけれど、「そのうち」って生活に余裕がでてきた「今」だよ。
 もしかして、スリッパの不在が僕たちの関係性をいびつにしているのではないか?あるべきものがないから、なんだか「そぐわない」のではないか?僕たちが部屋に「そぐわない」のではなく、スリッパのない部屋が僕たちに「そぐわない」のだ。慣れてきた生活だけど、スリッパが不在の時点ではまだ僕たちの生活は始まってもいないのかもしれない。
「よし、行こう。今すぐだ」
 僕たちは深夜、ボロボロのスバルに乗って、国道を蹴散らしながらスリッパ屋を探した。

「あてはあるの?」
「ないさ」僕は鋭い角度で交差点を曲がった。「だから、目を皿にしてそれっぽいところを探してくれないかな」
「わかった。ねえ、ビール飲む?」
「いや、運転中だから」
「あそう」彼女はどこにそんなものを隠していたのだろう、スーパードライのロング缶をカシュッと開けて、水滴を僕の頬に飛ばした。
 国道に一台も車はなくて、僕たちの小さなスバルだけが春の獣のように夜を駆けていた。信号は殆ど点滅に変わっていて、歩行者だって野良ハクビシンだっていない。こんな道路に佇む警察官がいたら、税金泥棒と揶揄されるだろう。
 彼女がビールを啜る音。喉を鳴らす音。ホップの軽やかで爽やかな香り。それに伴う彼女の甘い吐息。ひやりと銀色の表面をすべり落ちる水滴。
 車内は変に蒸していて、フロントガラスが曇りはじめていた。粘着質な汗がじっとりと僕のこめかみに絡みついて、シャツは背中に張りつき、気付けば僕の喉はおそろしいほど渇いていて、狂おしいほど「それ」を欲するようになっていた。
「飲みたい?」
「正直、飲みたいね」
「でも、運転中よ?」
「そうなんだよね」
 彼女はぐびり、ぐびり、と喉を動かした。僕もつられて貴重な唾を飲み込んだ。口が乾いて変な臭いがする。彼女がくすりと笑ったような気がして、言った。
「他の車はまったくいないし、一口飲んだくらいで酔わないし、なんならひと缶飲んでも酔うことはない。だから、飲んでも大丈夫だろう。そう思ってない?」彼女は冷たい缶を僕の頬に当てた。
 おちょくってやがる。
 苛立ちと共に、悲しくなるほど激しい誘惑が僕を襲った。ビールを、この渇いた喉に、暑苦しい体に、息苦しい車内に一口でも流し込めたらどれだけ幸せだろう。そのために僕は生きてるんじゃないか?そうするために僕は生きたいのではなかったか?
「い、いや、う、運転中だからさ、ほら、スリッパ屋を探しなよ、僕たちはスリッパをはやいところ入手しなきゃならない、わかるだろ?帰ったら一緒に飲むよ、明日は休みだし。だからそれまで、ね、眠らないでくれよ。ほら、スリッパ屋を、探し」
 彼女は僕の顔に覆いかぶさって、唇を折り合わせ、直接、僕の体内に彼女の体温の重なった濃密なビールを流し込んだ。僕は大きなひと口を飲み込んだ。
 ぶつかるんじゃないか。一瞬そう思ったけれど、まっすぐな深夜の誰もいない国道でなにかにぶつかるわけがなかったし、ぶつかって死んだとしても、彼女と一緒ならなんの問題もなかったので考えるのをやめて、薫るホップと甘いアルコールと彼女のとろけた舌を愉しんだ。アクセルを踏み込んだまま。
「そういうところが好きよ。真面目で可愛い。スリッパ屋はもっと南にあるわ。さあ、飛ばしてちょうだい」
 時速は120キロを超えていた。
 南、か。僕たちはどこまでも行けそうな気がした。

 たとえスリッパ屋がなかったとしても。


(終)

 

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