蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

『源氏物語』を四分の一くらい読んだのだが

 学部だしこういった名作、を読んでおいたほうが「はく」が付くかなぁと浅ましく思って、去年の夏から谷崎潤一郎現代語訳の『源氏物語』を読んでいたのだが、漢字が旧字体で難しいし登場人物の名前がちょろちょろ変わってわけがわからなくて、途中で読むのをやめてしまった。浅ましい者には無理だった。
 途中で読むのをやめた本の書評をする人ってまずいないと思うのだが、だからこそやろう。書評と言っても書評ではないし(支離滅裂な発言)。


 『源氏物語』のあらすじはWikipediaに詳しいのでそちらを参照してください。
 と、しょっぱなからクソみたいな書評の導入だが、長大な『源氏物語』のあらすじなんて書いてられるか。要するに光源氏が女体盛りをする話だ(ちがう)。
 この光源氏という男、身分が良いだけでなく、あらゆる芸術に長け、見た目も中身も完璧、「光」という言葉はこいつのためにある、みたいな男なのだが、いかんせん女癖が悪いし、女運がない。そんな光源氏のドタバタ平安宮中物語なのである!

 平安時代紫式部が書いた物語だが、そんな千年前の物語がなぜ現代でも読み継がれ、終わりのない研究がなされ、人々の心を掴むのだろうか?
 私は現代語訳で読んだ(途中まで)。教科書の古文で読んだ箇所もあったし、おおよそのストーリーは頭に入れていたのだが、それでも初見で読むと「えっ?ここで死んじゃうの?」とか「えっ?こんなんあり!?」みたいな展開に驚かされる場面も多く、シンプルにストーリーを楽しめた(途中でやめたけど)。これって、すごいことじゃないか?千年前のストーリーが現代に通用しているのだ。
 光源氏が女に手を出しまくることに共感を覚える読者は少ないだろうが、一方で失恋したときの悲しさや淋しさ、面倒くさい女に絡まれたときのウザさは、状況描写だけで生々しく書き抜かれており、そうなっていることで、物語を越えた普遍性というか、まるで自分の過去を抉られるような実感があり、その普遍性こそが紫式部が千年前に書いたにもかかわらず現代も読み継がれているひとつの理由であるし、現代語訳した谷崎の腕の素晴らしさでもあると思うのだ。


 生霊とか怨霊に呪われて死ぬ登場人物たちのリアリティはまた現代に通ずる。
 人間の恨みはとてつもない力を持っていて、人によっては怨念の禍々しさは神にも似るところがある。以前、このブログで「言霊」のことを書いたが、怨念の乗った言葉には力があって、遠く離れた人を不幸に見舞うことがある。『源氏物語』の怨霊の類はそういったものなのではないだろうか。

arimeiro.hatenablog.com


 言葉の不幸な力は、特に現代では当たり前のようにSNSなどで散見される。アカウントに鍵をかけていようが、特定できる誰かの悪口を書いてしまうことは、言葉の力を舐めている。その書いた言葉を誰かが見る以上、その言葉の書いた相手に伝わらない可能性はゼロではなくて、多くの人が禍々しくその人のことを想えば想うほど呪いの言葉は巡り巡って相手に知らせしめ、言葉が刃になって「呪い」と化すのだ。
 悪口を書くな、と言いたいのではない。バレる覚悟と、言葉が残る覚悟と、今度は自分が呪われる覚悟をしろ、と言いたい。
 『源氏物語』では想いを和歌にのせて相手まで届けるが、その文面にのせられた気持ちの強さが呪いとなって時には恨めしい相手を呪い殺しているのではないか。現代にも通ずるリアリティが、こういったところにある。言葉の力はふへんだ。
 


 と、偉そうに書いたけど、源氏物語四分の一くらいしか読んでないんだよね。
 何が難しいって、知識が難しい。平安時代の生活風俗習慣歴史的背景を知っておかないと、いまいちストーリーが飛躍しているように感じるし、もちろん解説はついているのだが、ぴんと来ない。解説を理解するための解説が必要だ。
 要するに馬鹿には読めない
 谷崎訳の昭和に刊行された旧字体の物ではなく、もうすこし簡単な、平成調の文体で書かれた柔らかい『源氏物語』を読むべきだった。
 また、登場人物が多くて呼び名がしょっちゅう変わるため、気を抜いて読んでいると誰が何なのかわからなくなる。集中力も必要だ。


 とりあえず、しばらくは本棚に飾って楽しむとする。

 

 

twitter.com