蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

東京永福町のイタリアン「ラ・ピッコラ・ターヴォラ」で浮力を得る。

 ランス料理、中華料理、トルコ料理、韓国料理、タイ料理、和食……などなど世の中にはざまざまな料理があるが、私が一番好きなのはイタリア料理だ。なぜなら、美味しいから。
 イタリアンの店はどの街にも必ずと言っていいほどあって、それぞれの店によって味が異なり各人好みの味があるだろうが、私はその中でも京王井の頭線沿線の永福町というところにある

ラ・ピッコラ・ターヴォラ

が一番好きで、そこより美味い店を知らない。
 初めて行ったのは今から2年前の冬。ピザ食べたいね~、無性に。近所にないのかな、と調べたところ、あった。グルメサイトの評判を見ると頗(すこぶ)る良い。イタリアン好きとしてはレパートリー開拓のためにも行かねばならない。私は迷わず電話予約した。
 店は予約必須で、席は二時間制となっている。17時半~、もしくは19時半~の席を選べる。この時点で人気店だということが伺えるだろう。私は期待を胸に、走った。
 店に着いて、サラダとスパゲティとピザを注文、恋人とワインを含みながら心待ちにして待つ。来る。食べる。


 我々は、感動に放心した。


 その晩、どうやって家に帰ったかあまりよく覚えていない。
 イタリアン談義をしたと思う。あのスパゲティの麺はサイコーだった。トマトソースがサイコーだった。サラダも素晴らしかった。そしてピザね。サイコーだった。
 語彙力が欠如しているのではない。あらゆる言葉を用いても表現しきれないほどの美味しさと感動だったのだ。この日以来、最後の晩餐はピッコラ・ターヴォラにすると決めている。


 それから年に一回、その店に行く。頻繁に行きたいのだが、なにぶん引っ越してしまって簡単に行かれないというのと、あまり頻繁に行くと我々の中のイタリアン美味しさ指数がインフレして他の店では満足いかなくなる危険性があったからだ。そして実際、その初回の一度でインフレしてしまった。
 人が並んでいるイタリアンやその地域で有名なイタリアンに行っても、美味しいのだが、ピッコラには敵わないね、と結論に至ってしまうのだ。それは悲しみでもあった。もっと中年とか齢を老いてからピッコラに来るべきだったのだ。しかし、喜びでもあった。若いうちからこんなに美味しい店を知ることができただなんて。


 過日、久しぶりに行こう、となって、私たちは晩餐のためにその日は食事を抜きなにも飲まず不眠不臥のさながら千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の阿闍梨あじゃり)のごとく、不動明王真言を唱えながら永福町に降り立った。涅槃(ねはん)寸前、いつ死んでもおかしくない状態であった。悟りは近い。
 店の前には既に信者が行列を作り、開店を心待ちに経を唱えている。これらはすべて予約客である。
 春といえども夕刻は冷える。震えて待つ。あるいは期待感の武者震いだったかもしれない。
 開店。壁側のテーブル席に案内される。着席。ひとまずグラスワインを注文。白。よく冷えている。ワインを飲みながらメニューを検討する。
「スパゲティはね、ボロネーゼがいいと思うの。前回も食べたけど、前回の衝撃を今一度脳裏に刻みつけたいの」
 承諾。
「ピザはさ、スパゲティがトマト系だから、チーズ系がいいよね」
 我々は「後悔」しないためにも最善手を打ち続ける。結局何を頼んでも後悔しないのだが、年に一度なのだ、最善のピザを取らなければならないし、それが私たちの活路だった。
 決まらない。
 チーズピザだけで十数種類。議論を重ねる。口角泡を飛ばし、ときに手ぶりを交えてお互いの主張をぶつけ合う。隣の卓ではすでにサラダをつまんでいる。検討とシミュレーションをこれでもかと重ねて、ようやく納得のいくピザを選んだ。


 一息ついたが、まだ選定は終わっていない。前菜を選ぶべきだ。二品ではどうも足りなさそうだし、寂しいものだろう。
 しかし我々には憂慮することがあって、それは、我々の胃袋積載容量が常人以下であり、つまりは少食であることだ。そしてなんとしても「残したくない」思想を抱いているため、毎度食事のたびに最後は二人してつらい思いをする。
 だから軽めの前菜がいい。サラダとか。でも、この店のサラダは割に大きく、他の前菜も前菜といえどもボリューミーで値段に見合った相応の量を提供してくれるため慎重に選ばなければならず、ここで最善手を打たなければ投了必至、悔しい思いをして足摺(あしずり)をして泣くハメになる。我々は頭を抱えて悩んだ。腹がぐぅ、と鳴いた。
「この前菜6種盛り合わせがかなり魅力的だね」
「でも、二人前から注文ぽいよね。前菜だけでひとり千円もする。ということは、それなりの、というか、はっきり言ってかなりのボリュームが見込まれる」
「わかってる、魅力的、と思っただけ」
「わかってる、かなり魅力的だ。とくにこのカルパッチョ
カルパッチョ
 私たちはカルパッチョが好物である。しかし、メニューにカルパッチョの単品はないため、食べたいなら6種盛りを頼むしかない。
カルパッチョ以外にも魅力が詰まってる。たとえばほら、この肉のなんか……」
「でもさ、こっちの野菜のグリルとか……」
「いや、ソーセージが……」
「いやまて、オリーブの……」
 我々の検討は隣の卓にピザが届くまで続いた。結局、自家製ソーセージとポテトのグリルを頼んだ。前菜6種はかなり魅惑的だったが、向かいの卓がそれを注文しており、提供された皿の大きさに我々は肝をつぶしたのだ。前菜6種を食べるならピザ、あるいはスパゲティを諦めなければならないか、もしくは三日前から断食をせねばなるまい。
 自家製ソーセージとポテト。はたしてどれだけの大きさなのか見当もつかなかった。もしも溢れんばかりのポテトだったりソーセージが獅子の食べるような大きさだったらどうしよう?賭けるしかなかった。

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 最善手だった。一般的な量だった。
 味に関しても最善手。ソーセージはハーブが効いていて、肉汁が弾けているのにさっぱりとした口当たり、それでいて食べ応えのある肉感。そしてポテトを単なる付け合せだと思って侮ってはいけない。私たちはこの日最初に、このポテトにこそ度肝を抜かれたのだ。
 甘い。
 甘いのだ。なんか特殊な調理をしてるんですか?ってくらい甘い。でもその甘さは間違いなく大地が育んだ天然自然の甘さで、一口食べた時、ほくほくとした熱とやわらかさの中に私は、北海道かどこかのとにかく雄大な農場の幻影を見た。爽やかな風が胸を通り抜ける。そこでまたソーセージをつまむと、今度は山羊とか羊とか豚とか、よくわからないがそれ系の動物たちが牧場を駆けまわる姿が脳裏に浮かび、ポテトとソーセージを噛みしめるたびに「大地」とこれを作った「人々」と「動物」、ひいては生命全体への感謝の気持ちでいっぱいになった。「いただきます」の意味を久しぶりに、幼稚園ぶりに再認識した。
 ありがとう。ありがとう。ありがとう。祈りにも通ずる感情。慈愛の感謝。圧倒的感謝。


 (ここまで3000字くらい使っているのにまだメイン料理が来ていないのどうかしているけど、もう少し続けさせてください。)


 ピザ、来る。
 ピッツァが来る。来た。

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 デーン。
 堂々たる佇まい。こっちの気が引けるくらい堂々としているので、私はつい合掌して会釈してしまった。
「わかるよ」恋人が言った。「でも外ではそういうのやめてね」
 水牛モッツァレラや他にもチーズをふんだんに使い、ベーコンとプチトマト、バジルをあしらったピッツァ。名前は忘れた。たぶん、ドックコンサラメ、だったと思う。間違っているかもしれない。メモし忘れたのだ。申し訳ない。
 6枚切りになっていて、1ピースが結構大きい。iPhoneXくらいあろうか。一切れ持つとずっしり重く、チーズから油が滴る。美しい油だ。私はこの油を全身に塗ってマッサージされたい。イタリアの女の子に。そして財布をスラれたい。
 一口食べて、私はその1ピースを皿に置いて、頭を抱え、目を瞑り、口の中で溢れるジューシーなチーズのうまみとベーコンの香ばしさとトマトの甘さとバジルの爽やかな風味をひとつひとつ確かめるように咀嚼した。この様子は傍(はた)から見れば、大事な局面で手の浮かばない苦悩する棋士にも見えたことだろう。でもこの時の私は心底感動していたのだ。ヨロコビを深く享受していたのだ。いけない。一気に食べると涙が出そうだ。
 口の中で春の風が吹いた。長い冬の厳しい寒さを乗り越え雪の下から芽吹いた春、まさしく見た目にもそのメタファーを感じて、私は震えた。これもう芸術だ。
 主役はチーズ。青空と白い雲の反射する浅い水面に水牛の影が立つ。芽吹く。
 プチトマトは焼いてもなお甘く、チーズの塩味が効いたステージでひときわ輝いて存在感を知らしめる。芽吹く。
 ベーコンは香ばしく肉感をチーズに与えるごとくで全体を引き締める。芽吹く。
 そしてバジルよ、彼がいるからこそ、全体がより輝くのだ。緑色の風が吹いて、芽吹く。
 飲み込んでもなお美味い。喉をかきわけて胃袋に堕ちていく、春。「生命」を感じるピッツァ。胃袋で、芽吹く。
 芽吹く芽吹く芽吹く……っ!咲き誇る!

 私の頭はどうかしてしまったのだろうか?どうかしてしまったのだろう。そら、こんなに美味しければどうかするわ。
 チーズは味が濃く胃に溜まる印象があるが、このピッツァに関してはそんなことなく、あまりにも「軽く」てどんどん手が出る。そして食べ終わった頃になって、自分が満腹であることを知るのだ。


そう、我々はピッツァを食べ終えて「満腹」になってしまったのである。
 やはり少食の二人には「前菜」はいらなかったのだ。滅茶苦茶美味しかったけど、いらなかったのだ。まだボロネーゼがある。食べきれるだろうか?


 結論から言います。
 秒で食べ終わりました。

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 ボロネーゼとは要するにミートソースなのだが、ここのボロネーゼはトマトの香りが活きていて、普通のミートソースとは一線を画す。ソースの完璧に計算された調和が麺に絡みついて私を抱擁する。挽肉は一粒一粒が驚くほどジューシーで、まるで小さなハンバーグのようだ。肉肉しさが眠っていた野生を呼び覚まし、私は咆哮しそうになる。
「やめてね」
「うん」
 食べ応えは申し分ない。しかし、「軽い」ため、満腹だった我々もぺろりと食べてしまった。残ったソースをいやらしく啄(つい)ばむまでした。家畜になりたい。このまま。


 この「軽さ」とはなんなのだろうか?
 答えはおそらく、「夢中にさせる力」だ。
 本当に美味しいものを食べると、私たちは苦しみや憂鬱から一時的に解放されて、浮力を手に入れるのだ。ピッコラ・ターヴォラの料理には翼を授ける力がある。

 我々はこのあと、さらにアフォガードを注文し、美味しさに涙を堪えながら食べた。

 写真がなくて申し訳ないのだけど、わかってほしいのはこの時、私たちは幸せの絶頂にあって、一種の悟り、の境地に達しており、衆生(しゅじょう)の皆さんに写真を見せたいという欲求を喪失していたのだ。ぜひ自分の目で確かめていただきたい。

 食事を終えると圧倒的満腹で、もうなにもしたくなくなって、思考も捨てて、生きる意味とか価値とか理由とかどうでもよくなり、とどのつまりは、空(くう)の状態にあった。満腹なのに空とはこれいかに。
 空を歩いて帰れる気がした。手に入れた浮力で。


 なにもかも美味しい。
 幸せはここにある。
 ラ・ピッコラ・ターヴォラ、ぜひ一度訪れてみてはいかが。

 

 お店のホームページ

www.piccolatavola.com

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 渋谷駅から京王井の頭線急行で8分

 永福町駅から徒歩3分です。

 

 

 

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