蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

はっきり言って季節性のY

 近、なんだか心の調子が悪い。
 きっと春のせいだ。
 季節の変わり目は精神的な変化が起きやすくて、特に春はこれまでの環境が終わるストレスに加え、新しい環境が始まるストレスから、私は気分を崩しがちになりやすい。でも一日中寝込んだりするわけではなくて、半分くらい寝込んで、あとは文章を書いたり文章を読んだりしている。捗らない。

 


 2月に父親を亡くし、これまでの人生の闇の部分を総清算することができて、はっきり言って人生が変わった。死んでよかったとは言わないけど、なんだか複雑な気分だ。でも私の家族や会社の方や現在の奥さんや他にも面倒くさい人間関係やここではちょっと書けないような家庭の闇たちは父の死を悲しんでおり、また、ちょっと色々あって人間関係が面倒くさいことになっていて、立場上私は何もできないのだけれど、そういう話を聞いたりしていると、はっきり言って、すっかり心がやられてくる。どうにもできないふがいなさ、そしてまだ父に縛られようとしている人生。もうたくさんだ。
 新社会人になるので会社の勉強もせねばならず、勉強してもわけがわからなくて、げんなりしている。また、サークルで卒業コンパがあるので卒業する幹事学年として私もいろいろやらねばならないのだが、そんなことに精神を割いている余裕はなくて、すっかりほっぽり出してしまった。そのことがまた私を苦しめるのだけど、ほんとうになんか体が動かないのだ。そのことに関して。
 春休みにあまりにも多くのことが起きすぎて、しかもここにきて季節が変り、ただでさえぬかるんだ心が、もう液状化現象を起こしてどろどろ溶けだしている。どうしようもない。こういう時は眠るしかない。
 

 2年半前まではこういう時、死にたい、としきりに思っていた。でも最近は、しかし思わなくなった。つらいのだけど、死にたいとまでは考えない。
 恋人ができてからだ。
 恋人ができてから、私は私だけのものじゃないということを強く意識するようになった。私が死んだらきっと彼女は悲しむだろう。泣くだろう。悲嘆して、今の私よりもずっと凹んで、暗い人生を歩むことになるかもしれない。もしかしたら、そこで歩みを止めてしまうかもしれない。そんなことを考えると、死にたいなんて思わなくなった。死ぬときは一緒が良い。


 調子が良ければ日中は元気なのだけど、毎日夜になると心がやられる。春の夜の風が憂鬱を運んでくる。
 こんなに穏やかで残酷な季節、他にないと思う。春が嫌いだ。大嫌いだ。春が来るぐらいならずっと冬でいい。桜の色は心の血の色だ。それとは関係なく、花見が好きだ。花見で飲む酒は美味い。
 

 憂鬱は底の見えない広い水たまり。そこに憎たらしいほど青い空と幸せの象徴みたいに純潔な白い雲が反射していて、私はその水たまりの淵に立たされている。時折深い底で得体の知れない水棲の多脚獣が蠢いているのが見える。髭のはえた男が杖で私を突いて脅すのだ。飛べ、飛び込め、と。
 そんな感じの漠然とした悪夢みたいな憂鬱。
 さっきから「憂鬱」がうまくタイピングできない。気を抜くと「郵つ」になってしまう。こういうところも嫌いなんだ。これからはYと表記する。


 Yは私のファーストネームの頭文字でもある。

 

 

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