蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

CからはじまるABCマート

 は靴を履くのが好きで、外出するときは必ず靴を履いてしまうのだけど、皆さんはどうですか?けっこう靴を履く人は多いんじゃないかな。
 同じように、靴を選ぶのも好きだ。靴屋で好みのタイプの靴を眺めるのはいいものだ。値段と好みが合致すれば買うこともあるだろう。泣きながら。


 なぜ泣いているのか?


 その涙は悲しみ、悔しさ、惨めさ、劣等感、喜び、解放感など、さまざまな感情が渦巻いているくすんだ涙だ。どうして私は靴屋に行くだけでそうなってしまうのだろう?病気なのだろうか?頭の。
 

 靴屋に行く際、もちろん靴を履いて行くわけだが、私が「靴屋に行く」ということはすなわち、「もう履ける靴がないから行く」ということになる。
 一足の靴を履き潰してすっかりぼろぼろにしてしまい、これじゃあみっともないので、こんな靴を履いていると健康で文化的な最低限度の生活をしている人、否、あるいはそれ以下の人、と思われてしまうので、新品の靴を買いに行くのだ。つまり、ボロボロの靴で靴を買いに行くのだ。
 そうだな。ABCマートにしようか。スニーカーでも買おうか。入店。
 店に入ると新品のペカペカしたスニーカーが今にも駆け出さんばかりに陳列されており、圧倒される。靴のにおいがする。好き。すこ。犬か。
 私はコンバースの靴が好きだ。かわいい。

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 ちょっと革、なやつもいいよね。

 この歩きやすそうなのもいいな。

 コンバースはぶちゃけ、履き心地が上履きと大差ないからナ。といった調子で店内を物色する。すると好みの靴を見付け、店員に24.5か25のものを持ってきてもらう。私は足が小さい。
「かけてお待ちください」なんぞ言うから、試着用の異様に四角いソファに座って待つ。その時、目の前に鏡があって、そこに写った自分を見て、心がざわつく思いが湧き上がってくる。
 なんだこの靴。今履いてる靴ボロボロすぎないか?
 私が履いている靴は底がすり減って、表面もドロドロしていて、靴紐も変色し、洗いすぎて色褪せ、なんなら底のゴムと表面の布部分が分離していて、底に穴が開き、どこをどう見ても、どこからどう見ても、汚い、ボロい、という感想しか出ず、見るからに貧乏人というか、単なる貧乏人ならもう少しマシな靴を履いているというものだ、オシャレの美意識が欠落しているみっともない人間に見えるではないか。おまけに服もボロボロ……(笑)ってなに笑ってんだよ。刺すぞ。
 自意識過剰、マイナス自己中、被害妄想甚だしい私は、そして、考える。店員の心境を。
「あいつ、あんなボロボロの靴履いてみっともないなぁ~(笑)惨め(笑)オマケに服のセンスもないし。服のセンスは内面のセンスの顕れなんてよく言うけど、まさにそれだよね。オシャレは足元から。あんな靴じゃ、どうしようもない人間なんだろうな。真面目系クズ、みたいなさ。あんなやつの靴を選んでるとこっちが惨めな気持ちになってくるよ。あーあ、オシャレな人の靴を選びたいな~。そうだ、あいつのサイズはなかったことにしよう。ざまあみろ」


 ひどい。


 私はサイズの靴が運ばれてくる間にそんなことを考えて震える。
 今すぐこの店を出よう。
 でも、ここで靴を買わなかったら永久にボロボロのスニーカーで過ごすことになる。もう外には出られない。裸足で歩まなければならない。この硬いコンクリートジャングルを。血塗れになってしまう。心も体も。
 一時の恥だ。堪えるしかない。
 心優しい店員は私のサイズの靴を持ってきてくれて、おらよ、履けよ、と靴紐を解いてくれる。私は実に惨めな気持ちで新品の靴に、穴の開いた靴下を履いた足を滑り込ませる。
 店員はきっと、インドのスラム街で暮らす裸足の青年にピカピカの靴をあげるNPO団体の職員のような気持になっているに違いない。それは優越感。憐憫。私はインドのスラム街で病気の母親と7人の弟妹を養うためにチャイを売っている青年の気持ちになる。
 धन्यवाद…………。


 CHIKUSYOU

 

 ちくしょう


 似合わない。おまけにサイズも合わない。
 だけど、これ以上靴屋にいたらうつ病になってしまう。ひょっとして、もううつ病なのかな。わからない。
 私は「これでいいです」と屈辱に満ちながら言って、会計を済ませる。そうして新品の靴を履いて遁走して店を出る。ボロボロの靴は店で捨ててもらう。呪いはあそこで振り払ってもらう。
 店を出た私は靴を買った喜びよりも、呪いから解放された喜びと悔しさに涙を流して、そしてコンクリートジャングルをすり足で、ビルの影へ消えるのだった。

 

 その靴が次なる呪いになることも忘れて……。

 

 

 

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