蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

絶望的状況こそ私に創作欲求を駆り立てる

 の創作は逆境で生まれる。
 こう書くと格好良いけれど、逆境と言ってもテスト勉強といった程度のものだし、私にとってみればはた迷惑なクセでしかない。
 要するに、他にやるべきことがある時に限って、創作意欲がモリモリ増すのだ。私はこの悪しきクセによって大学を浪人した。
 高校生の頃に作曲活動を始めて、旺盛に曲を作ってはバンドで歌っていたのだが、それらの曲の半分以上はテスト期間に作られたものだった。
 次のテストでいい加減良い点を取らないとクラスを落とされる……。そういう絶望的で危機的な状況であればあるほど、私の創作意欲は増すのだった。創作欲求が虫のように這いまわって全身を掻き毟りたくなる。暴れまわりたくなる。どうすればおさまるだろうか?
 作るのだ。曲を。
 こうして私は成績を上げることなく、高校3年間、クラス最下位の成績で卒業した。アホか。
 

 逆境はなにも、テスト勉強だけではない。
 生活のストレス、家族関係のこと、その他もろもろの自分にはどうしようもない悩み、憂鬱、これらが私を創作に駆り立てる。
 不幸であればあるほど、自分では満足のいく物語が書ける。
 そういえば、『枕草子』を書いた清少納言は政治的に敗北者で、紫式部擁する中宮彰子(しょうし)が帝の子を孕むと、清少納言擁する中宮定子(ていし)は宮廷に居場所がなくなってしまい、蔑まれることになる。その政治的戦争のなかで書かれた『枕草子』はしかしながら、彩りに満ち、小さな喜びや滑稽に溢れていて読む者を軽やかで雅な平安世界へ誘い、また同じような苦しみを持つ平安人との心の調和をもって楽しませてくれるが、一方で勝者の紫式部が書いた『紫式部日記』は他人の悪口や悪辣な妬みで溢れており、歴史の裏側のドロドロした部分を読者に提示する。
 この違いは何だろうか。
 現実の充実と創作の充実は比例しないということだ。
 紫式部が偉かったのは、日常の燻りを『源氏物語』に昇華したところだろう。
 私が日常生活で苦しんでいるときに創作が捗るということと、これらの関係性は似ているように思う。


 じゃあずっと不幸でいれば創作的充実は図れるのだけども、私は幸せになるために生きたい。しかし、日常が幸せであるほどに創作が捗らなくなる。それは私の不幸である。しかし、この不幸によって物を書くことは叶わない。
 矛盾。
 どうすればいいのだろう?
 そこで、就活をしていた時の私は考えた。そうだ、仕事と趣味がまったく異なるものにしよう、と。
 私の趣味は文章を書くことだ。文章を書く仕事ができればどれだけいいだろうと思う。しかし、文章を書く仕事に追われれば追われるほど、私は精神の逃げ道として用意してきた「物を書く」営みに苛まれ、自分のための文章を書けなくなるだろうと、予想した。
 趣味を、生きがいとして、逃げ道として、「私」を失わないためのものとして残すには、文章とはほとんど無縁の、物語とは遠い世界の仕事に就くべきだと考えた。
 私は考える。創作とは別物の仕事とは?たくさんある。
 理系の仕事?
 できるだけお給料が良くて、手に職がついて……。
 さまざまなことを加味した結果、私が選んだ仕事はシステム・エンジニアだった。


 文学部の日本文学をやっていた人間がIT企業に入るなんて、と私の先生は驚いた。多くの生徒は出版社や広告や書籍メーカーなど、少なくともどこかしらで文章や文字と関わり合いのある職を選んでいたからだ。
 私は私の文学を守るための道を選んだ。
 その点では、私も文学と関わり合いのある職を選んだことになるのではなかろうか。


 仕事でつらい時、自分が何者かもわからなくなった時、私は私のままでいられるはずだ。そうありたい。