『騎士団長殺し』(村上春樹)の文庫本を買うかとても悩んでいる。
ハードカバーの初版を持っているのだから買う必要は無いのだが、欲しいと言えば欲しいのだ。
ただ、買ったところですぐに読むとは限らないし、全4巻もあるのでそれなりの値段はする。ファンとしては欲しいけど、理性としては必要ないと思ってる。
どうしてすぐに読むとは限らないのかと言えば、『騎士団長殺し』、卒論で扱ったため、昨年、行間に穴が開くほど読みこんだのだ。祠の裏に開いた穴のように。
『騎士団長殺し』は発行部数のわりに売れ行きが芳(かんば)しくなかったようで、最近までハードカバー版が平積みになっているのをよく見かけた。出版印刷の授業でも先生が「騎士団長殺しはまったく売れてないらしい」って嬉しそうに語っていて、以来、私はその先生のアンチになった。
その先生は長年大学にいて演習授業を持っているにもかかわらず論文発表をしていないため「講師」の地位に甘んじており、大学教員としてどうなんだ、って常々思っていたし、数少ない論文も出版の数字データが羅列してあるだけであり、文学の先生とは思えない、そんなの文学じゃない、しかもなんの結論も導かれていなくて、そんなの論文じゃない、ろくでもない人だった。卒業式にもスーツではなくてユニクロみたいな服着てて、こいつの生徒にだけはならなくて正解だったと思った。この人はなんか病気なんだろう。
某先生の話はいい。『騎士団長殺し』の話に戻ろう。
私は『騎士団長殺し』が好きである。
好きだから最後まで卒論を書ききることができた。だけど、卒論を書き終えてから一度もページをめくっていない。読みすぎたのだ。
先日ブログに載せた『「村上春樹」殺し』はパロディで、私の中でくすぶっていた『騎士団長殺し』と「村上春樹」をどうにかしたくて書いたものだ。そんなに影響を受けたならいっそパロディにして脱却してやろうと思ったのだ。結果、脱却できた。たぶん。
ぜひ読んで。面白いから。
『騎士団長殺し』の評判ははたして悪い。
海外の新聞でも「これまでの焼きまわしで相変わらず性描写もひどい。作者の脳みそは終わってる」みたいな酷評がなされており、そりゃまあ原文(日本語)で読んでないんだからそうなるわな、と私は納得した。文体を楽しむものだから。
わからない人はわからなくていい。
『騎士団長殺し』はこれまでの村上作品とは一線を画す作品であると私は思う。
主人公が36歳であること(これまで村上作品の主人公は『多崎つくる』を除いて35歳だった)、温かいラストであること。
物語の反復を通して村上はなにかから脱却し、次のステージへ進んだのではないか。主人公の「私」がメタファー反復から抜け出してささやかな恩寵を手に入れたように。
また、東日本大震災のことが語られ、このことが私たち日本人の読者に多くの学びを伝えていると思うのだ。
我々も負の反復から抜け出す頃なんじゃないか?奇しくもそれは、改元であったり、東京オリンピックが契機になるかもしれない。
これらのことは正しくない。私の読み方に過ぎないから、勝手なものだ。
ただ、そう読める文章であることが私にとっては『騎士団長殺し』を特別な作品にしている。
『騎士団長殺し』で論文を書けたことで私は文学的に、精神的に、成長できた。
だからと言って文庫版を買うとは限らない。
なぜこうまで悩むのか?買えばいいじゃないか。
だって……だって……
表紙がなんか気に入らないんだもん。