蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

反骨精神でそり曲がった背骨よ

    は昔にロックンロールといふものを嗜(たしな)んでおったゆえだろうか、あたくしは人一倍反骨精神が強く、それはもはやロッケンローを通り越して天邪鬼(あまのじゃく)、ひいてはツンデレ、にまでなっている有様で、本末転倒というか、まさに換骨奪胎(かんこつだったい)して自分自身を見てみると骨が抜けて単に面倒くさい奴、あるいは萌えキャラになっていて、そのうち深夜アニメになるんじゃないかな、と思っていない。

 

    皆さん、最近反抗してますか?心のままに気に入らないことをぶちのめしてますか?一緒にしませんか?地下鉄の駅で。

    それにしても反骨精神、かなり面倒くさい。

    これがあるために私は協調性を失い、目つきは悪くなり、大衆を見下し、かといって何もできるわけではないのでビルの裏手で陰日向に咲いたオオイヌノフグリを愛でているくらいのもので、まったくどうしようもない人間になつちまつたもんだ。

    でも、僕は、くじけない。花を愛でよう。空に歌おう。

    なぜなら、反骨している時にこそ、自分といふものが自分であるといふことを、認識できるからだ。

    悲しいね。まだ反抗期を終えていないのだ。

    自分を見つめられる機会は他にもたくさんあるけれど、反骨が最も手っ取り早く、私の場合は長きにわたる反骨によって人間性にも染み付いてしまって、もはや何事にも「おいちょっと待ちな」と反骨しないではいられなくなってしまった。面倒な奴だ。

 

    私の反骨精神を支える3つの言葉がある。

「知るか」「ナメんな」「頼んで無ぇ」である。

    大体のことはこの3つのうちのどれかで片付く。反抗したいことの大体のことはこれらの言葉に収束するからだ。

    「知るか」は、誰かのトラブルに巻き込まれそうなときに使う。

    この事件はお前のことだろう。私には関係ないからほっといてくれ。お前だけ不幸になれ。お前だけ幸せになれ。こんな心持ちで「知るか」とだけ言葉少なに思う。

    「ナメんな」は言葉通りで、自分が少しでも害されたとき、気に入らないとき、ナメられたときに使う。権利を侵されたとかそういうちゃんとした理由ではなく、とにかく気に入らない、視界から失せてほしい、死ねとは言わんが消えてほしい、そんなときに呟くのだ。

    そして「頼んで無ぇ」は反骨の根幹と言っていいだろう。

    私は他人に勝手にあーだこーだ言われたりやられるのが嫌いなのだ。こちとら頼んでもないのに、おたくの自己満足的な、妄執的な「善意」で私を勝手にしないでくれ。

    たとえば、私は日本に生まれたいと頼んだわけではない。それなのに生まれてしまったから勝手に税金やら権利やら付与されて迷惑だ。頼んでもないのにそんなことやるな。だから私は反骨理論上、税金を払わなくてもいいのだ。そのうち独立国家を作ろうと思う。竹島に。

    「頼んで無ぇ」はきわめて都合の良い言葉で、他人の善意を蔑(ないがし)ろにする。使うときは、思うときは、他人と自分を傷つける覚悟を持たなければならない。

    でも、気に入らないことは気に入らないのだ。頼んでもないのに善意とやらで何かとどうかするな。ほっといてくれよ。

 

    反抗することで私は私を見つけられる。皆さんも、自分を見失ったらちょっと反抗してみたらどうでしょうか。たとえば、そうだな、海老フライに砂糖をかけてみるとか、通勤電車に手を振って海に行ってみるとか。(エビフライに砂糖をかけるとめちゃくちゃ美味しいので試してみてください。やったことないけど)

 

 

    しかし、反骨反骨と背を反りかえらせて叫んでいるものの、気に入ったことには素直に気に入る単純さで、そういうところが自分可愛いというか、どうしようもないというか、愛らしいんじゃないかな、と思う。思いませんか?

 

    というわけで、

    テレビアニメ「ありありめいろは恋の魔法」は令和300年春より放送予定!ぜったい観るのよ!

 

    これが、反骨しまくった男の、末路で、ある。