元気があれば、なんでもできる。
逆に、なにもできず、何者にもなれないのは、結局のところ、元気がないからである。
アントニオ猪木はそう言いたいのだ。みんな、元気を出そう。元気があればなんでもできるのだから。
私は病気じゃないし、それなりに健康的だと思う。数本のタバコを嗜(たしな)んだり毎晩酒を飲むが、今のところ健康だ。心も、病気ではないと思う。なりかけではあるかもしれないけど、客観的に自分をそう判断できるうちは確実に大丈夫だ。
じゃあ、どうして私はなにもできず、何者にもなれないのだろう?
それはなぜなら、元気がないからである。
は????????
矛盾してんじゃん。
いや、ちがう。健康であることと元気がないことは反対同士の関係だから矛盾になるけれど、私の場合は元気がないのではなく、無気力、なのだから、決して矛盾ではないのだ。
無力無気力無重力。無力無気力無重力。デデデデデデデデストロイ。
元気があればなんでもできるということで、こんなにうまい話はないと思った。
たしかに考えてみると、元気さえあれば大抵のことはどうにでもなるような気がする。要するに死にさえしなければ、元気でさえあれば、心の持ちようでハッピー&ピース&セックス&シティってわけだ。おもしろい。
では、元気を出すにはどうすればいいか?
私は月曜日の朝の憂鬱を運ぶ列車に乗りながら熟考した。
数々の真理の導きを経て、私が手中にした答えは、「楽しそうに生きる」ということだった。
楽しそうに生きる。
物事の習得には外面から作っていくことが重要であり、その習得によって本質的な内面が形成されることは、舞踊や剣道・柔道・空手をはじめとする武道に「かた」があることからしても事理明白(じりめいはく)のことで、「かた」の習得によって、その鍛錬によって、舞踊家たる素養や武道家の精神力が培われ、その「かた」の枠を抜けたときに自分自身のオリジナリティが噴出することは多くの人間国宝の術(わざ)を見ても膾炙(かいしゃ)とされるところだろう。
つまりなにが言いたいかというと、楽しそうに生きれば(「楽しそうに生きる」という「かた」を演じれば)、そのうち内面的にも変化が訪れ、実際に楽しく生きられるし、それによって慢性的な無気力から脱出、私は元気を得てなんでもできるようになるのではないだろうか?
ヨシ。
やるしかない。
意識改革だ。
おれは変わるぞ。大統領になるぞ。独立国家「バナナ・リパブリック」を建てるんだ。
さて。
楽しく生きるか。。。
できねぇーーーーーーーー!!
楽しそうに生きるってなんだよ!!!!
できるか、んなもん!くそか!
それをやろうとするまでの精神状態が危ういわっ!
それをやろうと思えるまでの精神的余裕がないわ!無気力なんだぞこっちは!!
試みに、楽しそうに生きてる風を装って、にやにやしてみる。
月曜朝、憂鬱を吐き出す改札口。私は人混みの中、にやにやしながら渋谷駅を徘徊する。
その後、ナイフを振り回し、7人を殺傷、数十名を負傷させるなどして、平成の終わりに最悪の通り魔事件を起こすことになる犯人だろ、この笑顔。
みなさんも、やってみては、いかがでしょうか。