私は海の近くに住んでいる。だからって、由比ヶ浜(ゆいがはま)には住んでいない。単に相対性理論の歌詞をタイトルに使いたかっただけだ。
LOVEずっきゅん 【PV】 相対性理論 - YouTube
小さい頃から海の近くに(家から徒歩5分以内)住んでいるので、海はなにかと私の心の支えと成長を見守ってくれる心の風景になっている。
海は心地よい。
幼い頃溺れかけたのもこの海だったし、仲間とギターを燃やしたのもこの海岸だったし、死にたくなって着の身着のまま入水したあの初夏の夜もこの海だったし、恋人に告白したのもこの海だった。犬ともよく散歩したものだ。犬と最後に散歩したのも、この海だった……。
地元の海には、私の悲しみと苦しみと喜びと栄光、つまりは成長の風景がつまっている。
働きはじめてから強く思うのが、貝殻を拾ってメルカリで売りその金で生活できたらどれだけいいだろうということ。1日1ドル以下の生活を強いられる貧困国家の人々に怒られそうだけど、貝殻を拾うのは私の悦(よろこ)びだ。
海岸に落ちている貝殻や石に想いを馳せるのが昔から好きだった。
波に削られ丸くなった石の表面は水のようにさらさらしていて、身体の一部が海に溶けるってどんな感覚なのだろう、と指先で考えさせられる。左右で色のちがう小石や削られて中身の露わになった石がどんな生涯を過ごしてきたのだろうと考えると、なんだかとても神聖な気持ちにさせられる。
小石であっても、この石たちは間違いなく人類が誕生する以前からこの星に存在していて、生まれたときから石であり続けたのだ。私なんかよりよっぽど立派だ。この小さな鉱物に気の遠くなるほどの時間が流れている。
小石を海に投げる。ちゃぽん、と波間へ消える。
石の寿命は波に削られ風に蝕まれ小さくなって、小さくなった果ての、砂つぶなのかもしれない。
貝殻もたくさん落ちている。
多くは欠けた二枚貝で、巻貝は多くない。二枚貝には大抵小さな穴が空いていて、これは捕食者に殺された跡を示す。
イモガイという貝殺しの巻貝がいて、こいつが二枚貝に針を刺し、中身をちゅるちゅる吸ってしまうのだ。恐ろしい。
可哀想に。
でも仕方がない。それに、なによりも君の死骸は美しい。
私は貝殻を波間へ投げる。うまくいくと、水切りみたいにバウンドして遠くまで跳ぶ。
シーグラスや流木も落ちている。腰掛けれるほどの大きい流木は台風の後にしか落ちていないけど、小さいやつはぽつぽつ流れ着いている。
今は流木ビジネスというものがあって、流木をメルカリやヤフオクで販売するとそれなりに売れるのだそうだ。
シーグラスも商用価値があり、青や赤のシーグラスは高値で取引されるという。
いいかもしれない。
原価0だし、小遣い稼ぎくらいはできる。
いつかそういう暮らしをしてみたい。
……でも、なんか嫌だな。
海の思い出に、お金を絡ませたくない。心の故郷くらい、綺麗なままにしておきたいな。
海洋汚染はしたくない。
【おまけ】
このあいだ海で拾った石。木星みたいな柄だったから、「木星のカケラ」と名付けたけれど、写真に収めたら「ばかうけ」みたいになってしまった。
休みの日に海でビールを飲むのが好きだ。
自由の象徴だから。