蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

失われた味は私たちの思い出

 と恋人はイタリアンが好きで、都内の各ポイントに好みのイタリアンの店を知っている。

 何を食べるかに困ったら現在地から近いその好みのイタリアンへ行き、必要十分な満腹と幸福を享受することにしていた。

 その晩も我々は近くのイタリアンレストランへ行こうと夜の街を歩いていた。もう21時近かった。

 今から行こうとする店は私と恋人にとって思い出深い店で、そこで何か特別な出来事があったわけではないのだが、その店は安く美味しく雰囲気も良く、なによりもピッツァの種類が豊富だったことと前菜の鰯のマリネが絶品だったこともあって、他のどの店よりも足繁く通っていたのだった。そういうわけで、私たちにとって日常的な思い出をその店は持っていた。後輩を連れてきたこともあるし、人に紹介したこともある。たぶん、ずっと先もこれからもなにかと通う店なんだろうな、なんて思っていた。

「ちょっと久しぶりかもしれないね」

「この間は酷い雨で行けなかったもんね」

 先日、そのイタリアンへ行こうとしたときは陰湿な雨が降っていたのと彼女の足が疲れていたこともあって、駅から15分くらい離れているその店へたどり着くことができなかったのだ。なによりも恐ろしいことは彼女の機嫌を損ねることだったし、私もあの時は空腹で心が折れかけていた。なんで駅から遠いんだ。代わりに串揚げ屋に入った。

 今夜は満を持して、イタリアンへ行こう、そういう決意を固めたのだ。

 気象良好、彼女の調子もいいし、我々はいい具合に空腹だ。東京のオフィス街の休日の夜はほとんど人影なんかなくて、この季節は涼しく見える。オレンジ色の街灯が誰もいない夜道を照らしている。私たち二人の影が伸びたり縮んだり先へ行ったり後ろへ回ったり、忙しない。私たちは期待を胸に早足だった。

「お腹空いたね」

「歩くとぐんぐん減るね」

 もう21時近いのだ。私たちは午後に猫カフェに6時間もいた。だからこんな時間になった。

 猫の扱いに慣れない私たちのもとに猫は来なくて、ただ眺めているだけなのだけど、あの空間そのものが癒し効果を与えてくれるからつい長居をしてしまう。私たちはやわらかい空間に埋まりながら置いてある漫画をひたすら読み耽った(彼女はこの日GANTZガンツ)を20巻も読んだ)(私は『ウシジマくん』の「若い女くん」で心が折れた)。

 

 大通りを曲がって路地の角を左に直進、一つ目の交差点を右に曲がれば店はある。

 店はある。

 いや、店はあったのだ。

 前までは。

 

 なくなっていた。

 店はわけのわからないタイ料理屋に変貌していた。

 

 私たちは驚愕して、あり得ないけど道を間違えたのではないか調べたが、間違えておらず、Googleマップが表示したイタリアンの店は間違いなく私たちの目の前にそびえるタイ料理屋を指していた。

 ガパオ700円

 パクチー入れ放題

 テイクアウトあります。

 なんのこっちゃ。私たちが喜んで食べていたイタリアンはもしかして初めからタイ料理だったのだろうか?ばかな。

 わけがわからない。

 困惑した。

 イタリアンのHPを見てみると、閉店したとも移転したともどこにも書いておらず、ただHPの残骸だけがスマホに表示されて、目の前の店には「パクチー入れ放題」の字がコミカルに踊っていた。

 サイトには予約フォームも残っている。メニューも残っている。それなのに、目の前にあるのは「パクチー入れ放題」なのだ。目を疑う。

 

 私たちは茫然自失としてその場を後にした。

 わけがわからなかったけど、現実的にもう店は失われ、あのピッツァもチーズリゾットもパテもポルチーニのクリームスパゲティも、そして鰯のマリネももう二度と食べられそうになかった。もう一度食べたかったな。彼女と一緒に。

 

 結局、私たちは彼女がオススメするカジュアルなフランス料理店へ足を運び、そこで美味しい食事と温かい時間を過ごした。

 そして、失われた店の話をした。

 最初にあの店へ行ったのはいつだったかねぇなんて写真を漁り、あそこの鰯のマリネは美味しかったねとか、カルパッチョも独特で良かったよね、なんて話をして、あの店の味と思い出に献杯した。

 

 悲しいいきさつになってしまったけど、また一つ思い出が増えた。