蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

文学部を出たことによる弊害

    学は文学部を卒業した。

    本当に、文学部に入ってよかったと思う。

    今の時代、役に立つこと、利益になること、そんなことばかりが求められ、即効性と目先の利益、金金金、金が一番大事なんだ、実存は目の前の結果だけなんだ、って感じでなにもかも腐っているというか、腐る前に死んでいるのだが、文学部はそれに反している。

 

    文学はなんの役にも立たない。何の役にたつか言ってみろ!と詰め寄られたら、泣きながらなにも役に立たないと言うだろう。

    本を読んでもお腹は膨れないし、いくら考えても答えなどなく、筆者の気持ちなんて筆者にすらわからない。

    まるで意味のない学問。利益にならない学問。こんなことばかりやっていたら貧乏になって不幸になる。金がないことは不幸だからだ。

    たしかに、そうだ。

    だけど、そもそも学問は商売ではなく、自分とは何かを追求するものであって、何かの役に立つとか金儲けに利用しようだとかそういう次元のものではないのだ。

    そういうことでしか物事を判断できない、そして学問の存在価値をそういう点でしか評価できない人というのは、なんともさもしくて浅ましくて、心が貧乏だ。

 

    楽しいからやる。

 

    これ以上に学問を、文学をやる理由なんてない。無価値なのではない。非価値なのだ。

 

 

    文学部でなにを学んだかというと、自分とは何かを考えるための力を養った、と言える。

    文芸を通して人間というものを見つめ、自分とは何かを考える。一生考えても答えはないだろうし、答えが出たらきっとそれは間違いなのだろう。たぶん、それを考えている自分というものが、自分なのだ。

 

    文芸作品を読むにあたって作品論や作家論を中心に研究をすることになる。それにはある種の思考の型のようなものがあり、また、書かれた時代の思想の流れをある程度利用し、作家の思想と結びつけていく。

    たとえば、都市生活が始まった明治後期から日本は探偵小説が始まり、群衆というものを見つめるようになる。

    たとえば、アメリカ文学では神という名の父を喪失し、路頭に迷いこもうとしている。

    たとえば、日本のカルチャーは母殺しに躍起になり、父親の存在が薄い。

    なんとなく、このような型というか、思想のムーブがあって、作品は、時代と作家の生い立ちや思想で解説され論ずることができるのだ。

 

    こういった知識は作品を楽しむうえで多角的な解釈を与えてくれるし、作品の世界を広げ、その奥に透ける作者、そして人間という普遍的なものを見せてくれるけど、たまにこういう知識が邪魔だな、と思うことがある。

    耽美な文章、胸を踊らせる内容、意味不明な展開、そういったものがたとえば「こうこうこういう文化的な背景があるからこうなってるわけね」などと論理的に説明されてしまって、無粋になってしまうのだ。

    村上春樹を読んだらコミットメントとデタッチメント、村田沙耶香を読んだら母殺し、といったように、余計なことが入り込んでしまって、なんだか純粋に物語を楽しむことができないのだ。

    いや、これはこれで楽しんではいるのだけど、なんというか、幼い頃に絵本で読んだ、物語を受け取る自分の純粋さ、なんの背景もなくただただ物語そのものを楽しんでいた喜び、みたいなものが薄れてしまった気がするのだ。いや、今は今で楽しんでいるのだけど。

    楽しみ方に次元はないと思っていて、その時にはその時の自分にしか感じられない楽しみがある。私は、あの幼い頃の純粋な物語への衝動を感じたいだけだ。

 

    映画を見ても、背景を考えてしまう。ああ、これは監督の思想だな、とか母殺しが裏テーマか、とか、歴史的なことと結びつけたりしてしまう。

    それはそれで楽しいのだが、もっとシンプルに感じたいのだ。考えて疲れたくないのだ。

 

 

    そういう時、ミュージカルはいい。

    奴らは楽しい現在のことしか頭にない。歌って踊ればなんとかなる世界。それでいいんだ。それでいい。

 

 

    とか言いつつ、ミュージカルでも背景をめちゃくちゃ考えてしまえるので、どうにかしたい。