以前にも書いたけど、あるいは書いてないかもしれないけど、あなたたちが覚えているかどうかなんてどうでもいいのでまた繰り返しになるかもしれんが書くよあたしゃ、言葉って恐ろしいな、とつくづく思う。
ああやって数千年も地上に残り、人間はすごい生き物だから、解読され、内容を事細かに翻訳されて、世界中の言語に置き換えてヒエログリフは世界中のいろんな時代の人に読まれているのだ。
王族の歴史とか神話なら読まれてもいいだろうけど、個人の性癖を露わにした個人的なドスケベ小説だって、こうなったら数千年後の人々に読まれてしまう可能性だってあるのだ。
まさか書いた本人もチラシの裏のドスケベが読まれるなんて思っていなかっただろう。石碑に刻むべきではなかったのだ。パピルスに書いて、ナイル川に流してしまうべきだったのだ。
このように、文字は本人の思いもよらないところで読まれる可能性と、ヘタしたらいつまでも残り続けるというリスクがある。
たまに文豪の恥ずかしい文章が発見されてニュースになるね。芥川龍之介のラブレターとか、太宰治の自意識の過剰さがうかがえる落書きとか。
こういうニュースを見るたびに、可哀想と思う。研究者たちは研究熱で興奮して芥川の恥ずかしい恋文を読み込むけど、もし自分のラブレターが自分の死後、不特定多数の人に読まれたとしたらどうだろうか?あの世で人ではあらない、言葉にするのもはばかれるものに生まれ変わるのではないだろうか。その名を、災厄と呼ぶのだ。
そして多くの人を絶望に呑み込む。
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もうひとつ、最近文字を書いていて恐ろしく思うことがある。
私はブログで自身の体験や感動や考えを綴り、言葉ではなかったものを言葉にして文字に起こし、皆に読ませるという回りくどい趣味を持っているのだが、これがなんだか、もしかしたら大変な不道徳なことをやっているんじゃないかと思うのだ。
なんだか最近、言葉にすればするほど、自分の中から何かが欠けてしまうような、もっと正確に言えば、自分から取り出したものが自分の中から消えて別の場所に行ってしまうような感覚を覚えるのだ。
言葉にすることで、何かが失われる感覚。
言葉にしてしまったことで、自分のものではなくなった感覚。
漠然とそんな感覚が、文章を書き終えたあとに、まっさらな砂浜に置き去りにされた流木みたいに、ぽつんと残っているのだ。
何かを書くときは、たとえば思い出のことだったらその時のことについてじっくり考えて、あれはどういうことだったのだろうと現在の視点でものを考えたり、当時の太陽の近さとか、風の感じとか、心の深いところに潜って感じたことを・感じていたことを書くので、内容の「何か」についてとても親しみが持てるし、大切な自分の一部として文字を刻みつけることができるのだが、書き終わってしまうと、なんだか文字列が他人事のようで、ちゃんと読めば自分のことだとわかるのだけど、すらりと読むと、ふぅんこの筆者はこんなことがあったのね、なんてまるで他人みたいに思えてきて、その時に私の中から何か大切なものがどこかへ行ってしまったことを強く認めることになるのだ。それはコンピュータの記憶容量となんだかちょっと似てる。
コンピュータの記憶容量には制限がある。限界がある。だから、何でもかんでも覚えさせるのではなく、時々ファイルを整理してできるだけ無駄のない状態に保たねばならない。
私が「何かを失う」感覚はこれに近い。と思う。
私は容量も新鮮さも限られた脳の記憶を他のものに移して、できるだけ新鮮で無制限のものにしておきたいのだ。
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言葉にしてしまうことで、その書かれたことは不完全になる。
言葉にできなかった美しいことを無理矢理言葉にしてしまうものだから、美しさや本質が失われてしまう。
それは単に私の腕がないのだろうけど。
また読めば再生できるけど、そのための文字だけど、何かは失われてしまう。私がいなくても、私の記憶や感情がこの世に存在しているというのはいかにも不気味なことである。
言葉にしたいことほど言葉にできない。
言葉にできないことほど言葉にしたい。
言葉は恐ろしいものだけど、こういったところがどこか愛しくて、人間らしい いとなみだなぁと思うのであった。かしこ。