蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

手のひらくらいの蜘蛛をティッシュで捕まえて逃がした話

    日の夕食どきに玉ねぎのスープをすすっていたら、テレビのそばに手のひらくらいの大きさの蜘蛛を発見した。玉ねぎを噴き出そうかと思った。


    幸い、蜘蛛は私の位置からしか見えなくて、母と妹の死角になっていた。

    もしこの場で、私が「蜘蛛だ!」と取り乱したらどうなるだろうか?

    きっと食事は中断され、母と妹は『1984年』の【二分間憎悪】でゴールドスタインを口汚く罵る人々のように、蜘蛛に罵詈雑言を吐き、私は蜘蛛退治を頼まれるがなかなか退治できずに時間だけがいたずらに過ぎ、茶碗の米は冷め、スープも冷め、魚の煮付けも冷め、なにもかも冷め、気付いたら虚しく死んでしまうのだろう。生きるとはそういうことだ。だから私たちには体温がある。そして蜘蛛に体温はない。


    支離滅裂なことを書いてしまったけど、要するに食事中に蜘蛛のことを言ったら面倒になること千万だったので、よしておいた。

    知らぬが仏、である。

    だいいち、蜘蛛って虫退治もしてくれるし、家徳の象徴なんですよ。それを殺すとはなんだい、自ずから不幸になるというのかい?

    喜べよ。

    手のひらくらいの蜘蛛が我が家にいることを、喜べよ。

    こんなのに寝ている間にでも顔を噛まれたら、毒で変形して醜く歪み、仰天ニュースに取り上げられてしまうのだろうな。それでも、喜べよ。

 


    私は蜘蛛を放っておくことにした。悪さするやつではないのだ。うちを間借りしてるだけ。妖精だ。私には見えない。もしも母や妹に発見されたら、すっとぼけよう。私には見えない。


    そんで、バレた。


    幸い、バレたのは食後であった。

    私は自室から引っ張り出され、母と妹の糾弾をひとしきり聞く。蜘蛛がいること、そしてなぜ蜘蛛がいるのかわからないこと、蜘蛛がいることで暗示される我が家の不幸、つまりは母の不幸、こんなのが家にいたら眠れない、殺してくれ、といったことを頼まれ、ビニール袋を渡された。犬のウンチを拾うように蜘蛛を捕まえて、握り潰せと言うのだ。

 

    殺虫剤はないのか?

    ない。洗剤ならある。

     私は小さいビニール袋を手に、立ち尽くした。


「はやく殺せ!」「潰せ!」「処刑しろ!」「捕まえたときに手をすり抜けてお兄ちゃんの腕を這い上がってきたらどうしよう」「そのまま逃げて、ママの口に入ってきたらどうしよう」「殺せ!」「はやく!」「殺して!!」「びゃぁ~~~(阿鼻)」

    かつてここまで迫害された民族はいただろうか?(たくさんいた)


    私は、できることなら蜘蛛を殺したくなかった。

    蜘蛛はテレビの陰で、自分がどうしてここにいるのか、これからどうなってしまうのか、食べるものはあるのか、眠る場所はあるのか、何もわからずに怯えているように見え、ピクリとも動かないのだった。

    私は、できることなら殺したくなかったけど、生きたまま捕らえて(ビニール袋で)、外へ逃がす自信もなかった。なにせ、手のひらくらいの大きさの大蜘蛛なのだ。ほとんど妖怪だった。

     しかし、そんな怯えきった蜘蛛を見ていると、とても殺すことなどできなくて、要するに私は捕まえる勇気も、殺す勇気もないのだった。


「殺せ!」「男だろ!」「殺せぇ!!!」家族の悲鳴が背後で響く。

    村上春樹がよく書く題材に、日中戦争で捕虜を殺害するシーンがある。殺したくないのに殺さねばならず、それをキッカケにして登場人物は心に闇を背負ったり、システムの凶悪さに潰されることになるのだ。それを思い出していた。捕虜を殺害した人たちは、こんな気分だったんだろうな。

    せめて、蜘蛛が極悪人だったらよかった。猛毒の毛針を全身にたくわえ、シーシー鳴いて、巨大な牙で家畜を殺し回るような、機動隊の出動を要請するレベルのUMAだったら私も容赦なく殺すことができただろう。でも、目の前にいるのは、善良な百姓のような、自分の罪を何も知らない憐れな蜘蛛なのだ。とても殺せない。

 

    私は、捕まえて逃がす決意をした。

 

    殺したらきっと後悔するだろう。母と妹の憎悪に気圧(けお)されて殺したら、それこそ日中戦争だ、ナチスだ、ビッグ・ブラザーだ。

    とは言え、ふつうにさ、考えて欲しいんだけど、手のひらくらいの大きさの蜘蛛を捕まえて逃がすことできます??

 

    怖すぎるでしょうが。

 

    蜘蛛君がその場から動かずにいてくれたら、じっとして盲法師のように阿弥陀佛を練っていてくれたら、あるいは捕縛できるだろうが、あの長い脚ですらすらすらすら逃げられたらとても捕まえられないだろう。あの長い脚がわさわさ動くさまを見たくない。恐ろしいスピードで影から影へ移動されたら、玉ねぎのスープを吐いてしまう。


    私はビニール袋を捨て、ティッシュ3枚を手にした。私の感覚的にティッシュの方が安心感があったのだ。ふわふわしてて。

    蜘蛛の前に立つと、心臓がでんでん鼓動し、雷が落ちそうだった。

    蜘蛛のそばにかがみ、祈る気持ちで息を吐いた。蜘蛛は私が間近にいてもじっとしていた。動くそぶりは見せない。

    蜘蛛は蜘蛛で念仏を唱えていたのかもしれない。小林一茶の俳句のハエじゃないけど、蜘蛛君も手を擦り脚を擦って命乞いしていたのかもしれない。

 


    ぱっ☆

 


    捕らえた。

    私の手の中で、蜘蛛は全く動かず、まるで空気を掴んだみたいに手応えがなかった。

    知らぬ間に逃げたのだろうか?

    でも手の中を確認する勇気はなかったし、あたりを見回す猶予もない。なにせ手の中に大蜘蛛がいるのだ。

    私はエリマキトカゲみたいにドタドタ走って、庭の戸を開け、いぎぃ!いぎぃ!と歯を鳴らしながらティッシュを庭に放った。

 

 

 

    ティッシュの中にもう蜘蛛はいなくて、けれど、蜘蛛がティッシュの下から逃げていった様子も見えなかった。私は本当に捕まえたのだろうか?でも、蜘蛛が私の手の中から逃げれた筈はない。

    蜘蛛退治が済むと母妹は何事もなかったかのように普段の生活に戻り、テレビを見て笑っていた。まるでこの出来事がなかったかのように。

    あの蜘蛛は本当にいたのだろうか?私の幻覚だったのではないか?


    現実であっても、目の前の出来事であっても、それが本当に起きたことかどうかはわからない。自分の目すら、経験すら、どこかで歪められたもので、何事も確証は得られないのだ。事実と真実は異なるのだ。

    せめて虚構の世界であれば、現実と虚構の区別は簡単につく。そのためにフィクションは存在するのかなと思う。現実を露わにするために。

 

 

 

    蜘蛛君が元気でいてくれたらいい。庭で虫を食べていてくれたらいい。ひと夏の命だけど、青春を謳歌してほしい。きっとこの出来事は私にとっても蜘蛛君にとっても、ひとつの試練であった筈だ。私たちは二人で試練を乗り越えたのだ。

    今では蜘蛛君に友情を感じている。

 

    二度と会いたくないけど。