蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

読むよろこび、書くよろこび、読まれるよろこび

 うしてほぼ毎日(略してほぼ日)ブログで好きなものや考えたことや最近あったこと、考えたことなどを書いていて思うのは、おれって清少納言じゃん、ということである。

 清少納言は『枕草子』のなかで春はあけぼのがいいだの、瓜に顔が書いてあって可愛かっただの、イケメン貴公子が来てくれて嬉しかっただの、ああいう人間にはなっちゃだめだの、好きなように勝手気ままに書いていて、長いものは数ページにわたるけど、短いものは数行で終わるものもあり、そういう短いやつは読んでみるとほとんど現代のTwitterと似たり寄ったりで、人間てのは本質は変わらないものなんだな、と思い知らされる。

 人間は書くことが好きで伝えることが好きで残すことが好きな生き物なのだ。

 

 でもひとつ疑問が浮かぶ。

 はたして、『枕草子』は執筆当時から読まれていたのだろうか?

 新作を更新するたびに同じ部屋の人や仕えている人に読まれていたのだとしたら、清少納言のメンタルは相当のものだ。だって、自分の性癖みたいなことまで書いてんだから。

 貴公子のすそから見えるたくましくも涼し気な手首がいいだの、中宮の頬のなめらかな産毛が愛しいだの、髪に油を塗った翌日の中宮の枕のにおいがたまんねーだの、書いてるのだ。

 たぶん書いてないな。

 読んでないからわからんが、でも、そういったことを書いていてもおかしくない。

 そういったことを登場人物本人に読まれて清少納言、喜んでたとしたらとんだ変態女である。また、そういったことを書かれて喜んでる中宮や貴公子もキツめのMである。なにせ、文章は永遠に残るのだ。『枕草子』レベルともなると永遠に残るだろう。

 

 そう考えると、現代的な感性としては、おそらく読まれていなかっただろうと推察される。Twitterの裏垢をリア友に読まれてるようなものなのだ。下ネタやキツめの愚痴をあからさまにされているようなものなのだ。

 ちなみに私は、リア友に読まれてる。もう諦めた。

 

 もしも誰にも読まれておらず、ただひたすらに書き溜めていただけだとすると、そこには清少納言「書くよろこび」があったと思う。

 ただひたすらに、自分以外誰にも読ませない文章を書く。

 純粋な書くよろこびだ。

 私も誰にも読ませない小説を書いたりする。いや、この言い方は正しくないな。

 「うまくいけば誰かに読ませるつもりの小説を書いていたが、うまくいかなかったので誰にも読ませていない」が正しい。

 そういった、いわゆる「ボツ」になった作品は、数か月して自分で読み返してみるくらいだ。

 『枕草子』も日記的なものとして、もともとはそうであったのかもしれない。つまり、自分のために書き、書くよろこびのために書いたのだ。

 

 書くよろこびは、書いているときにこそある。

 誰かに読まれようが、誰にも読まれなかろうが、関係ない。書いている現在、一文字一文字思考に言葉を当てはめている現在そのものによろこびがあるのだ。

 一方で読まれるよろこびは、それを投稿したり、プリントアウトして誰かに渡したりしたときには顕れない。

 PV数や感想や文字を追う目の動きを見たときに、顕れるものだ。いいねがついたり、リツイートされたり、感想をいただいたときに「読まれた」感が深く私をよろこびで包み込む。

 

 同じくらい、読むよろこびを、読者やフォロワーにも与えられたらな、なんて物書きの極東の端くれとして、おぞくも思うのである。

 村上春樹や、夏目漱石や、吉本ばななや、私の憧れる作家たちの文章を読んで私の心が跳ね回る時のような、そんなよろこびを。与えられたらなぁなんて思ったりもする。烏滸がましいけど恥ずかしい感情ではない。

 

 三つのよろこびがひとつになって、私はこうして文章を書いている。楽しいね。うん。楽しい。