この話はいろいろなところで書いたり言ったりしているので、もしかしたらこの偽枕草子みたいなブログでも書いているかもしれないが、何度だって書く。音楽は素晴らしい。
音楽には2つの「再生」がある。
ひとつは再生ボタンの「再生」だ。これは物理的なもので、三角形が横倒しになったあのマークを押すと、音が発生し、好みの音楽を聴くことができる。
もうひとつは、記憶の「再生」である。
今日はこれについて書く。
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誰しも思い出深い音楽があると思う。
ある世代ではドヴォルザークの『新世界より』第二楽章を聴くと学校帰りの道を思い出す人が多い。この曲は放課後のチャイムで全国的に使われていたのだ。
要するにそういうことだ。
音楽にはハーモニーに沿って聴く人の歩んできた道や、景色や、温もりといった記憶が、音符の隙間に沁み込んでいて、物理的な「再生」とともに、記憶も「再生」させる力がある。
もちろん、これは音楽に限った話ではなくて、小説や、詩や、映画や絵画など、あらゆる「作品」と呼ばれるものに備わっている力ではあるのだけど、音楽は特に再生能力が高いと、私は思う。
昔も今も、andymoriというバンドが大好きだ。解散してしまって久しいけど、彼らの音楽を聴いて、私は音楽に目覚めたみたいなところがある(いまは健やかに就寝しているが)。
邦楽バンドなので、聴いたことない人は聴いてほしいな。
この「1984」という曲を聴くと、高校の通学路とか、はじめてギターを手にしたときのことや、ステージに立った日のこと、そして夢破れたことを思い出してしまって、最後まで聴いていられなくなる。
その記憶と感情は、傷みであり、慰めでもある。思春期の、どうしようもなくくだらないようだけど世界が滅んでいくような悩みと葛藤と勝利と敗北が、「再生」された景色からあふれ出てくる。
スピッツのアルバム『さざなみCD』を聴くと、最初の大学受験を思い出す。
試験会場の帰り道、ウォークマンで『さざなみCD』を聴きながら、落ちた確信を抱いて2月の湿った冷たい雨に濡れたあの日のことを思い出す。靴がびちゃびちゃになって、自己採点もせずにすぐに寝たあの日のことを。
でも『さざなみCD』に収録されている「桃」という曲だけはちがう。この曲は、恋人が好きな曲で、2人で小さな部屋で聴いたり、私がギターを弾いて2人で歌ったり、この曲だけは聴くとなんだか温かい記憶がよみがえる。
私は大学時代、マンドリンというマイナーだけどメジャーな楽器(なんのこっちゃ)を演奏していたので、マンドリンの楽曲を聴くと、大学時代を思い出す。
この部分難しかったなとか、指揮を振ったなとか、恋人と一緒に弾いたなとか、かわいい後輩とアホみたいに飲んで騒いで記憶を失ったことが記憶としてよみがえる。矛盾してるな。
YouTubeには私の出身大学の演奏童画も載っているので、それを聴くと自分たちの演奏だから、より鮮やかに、細やかに記憶は再生され、心をじくじくさせたり、苛立ちや悲しみに暮れたとき、背中をそっと支えてくれるものだ。
演奏すると記憶は更新されることがある。
論理的に考えてもこれは判り易いが、しかし、上書き保存ではない。あらゆる記憶のひとつに演奏の記憶が入り込むのだ。
『ショーシャンクの空に』という映画で、人間から音楽は奪うことはできない、という名言がある。その通りだと思う。音楽こそ何の道具もいらない。声さえあればどこででも口ずさむことができる。声がなくても頭の中で再生することはできる。
どこの民族もたいてい固有の音楽があって、楽器があり、踊りがあり、生活がある。人種を問わず、場所を問わず、時代を問わず。
人間はなによりも、音楽と共に生きているのかもしれないね。