蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

andymoriになりたかったボーイ

 Twitterのフォロワーとandymoriの話をしていて、懐かしくなったので久しぶりにandymoriのアルバム『ファンファーレと熱狂』を聴いた。

 

 知らない人のために書こう。

 andymori(アンディモリ)は惜しまれつつも2014年に解散した三人組邦楽バンドで、2ndアルバム『ファンファーレと熱狂』はCDショップ大賞に輝き、多くのミュージシャンも愛する伝説的バンドである。

 

 2014年といえば私が浪人していた年で、2014年の思い出といえばそれに尽きる。

 日本武道館で行われた解散ライブはインターネット中継され、私はその晩だけは勉強せず、andymoriの最期に耳を澄ませ、涙を流していた。

 本当は行きたかったのだけど、とてつもないチケット倍率で、私の周りの人は一人も行けなかった。

 

 andymoriのライブでは入場曲でスキター・デイヴィスの「The End of the World」が流れる。

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 「世界の終り」哀しくて美しい曲だ。

 はじめて行ったライブは早稲田大学の学祭だったのだが、そのときのandymoriの登場は忘れられない。全身が震え、髪の毛が逆立ち、血圧が7000くらいイッた。世界が終わる気がした。

 

 andymoriのどこが好きかと言われたら、三日三晩語れる。そのくらい好きだ。すべてのバンドスコアを持ってた。

 とにかく好きで好きで、ボーカルの小山田壮平が脱法ハーブで地上波デビューしても、川に飛び込んで全治数か月の大けがを負っても、絶対に嫌いにはなれなかった。

 なぜなら、andymoriは私の青春そのものだったから。

 

 

*****

 

 

 昔、バンドをやっていた。曲を作り歌詞を書き、恥じることなく披露して、レコーディングまでする力の入れようだった。

 その私がバンドを始めたきっかけはandymoriとの出会いだった。

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 「1984」という彼らの曲を聴いて、雷に撃たれたような衝撃を受け、すぐさまタワレコに走った。

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 その曲が入っていたのがアルバム『ファンファーレと熱狂』である。

 

 何万回聴いただろう。

 親の運転する車の中、登下校、眠る前、自分で演奏もしたし、人が演奏するのを何度も聴いた。

 このアルバムは、音楽的感動を与えてくれた。音楽が、言葉にならない感動で心を揺り動かし、私にギターを握らせた。

 今聴きながらこれを書いているけど、やっぱり泣きそうになる。

 ただの音楽ではなくて、私の青春の「想い」がこの音楽に沁み込んでいて、再生するたびに「想い」が再生され、あのころ見た景色や建物の大きさや空の青さ、校庭の暑さ、初恋のフラれたあの子のこと、死んだ隣のクラスの子、ギターの重さ、大人の歪みや、ティーンの少年の抱いた鬱屈と躍動が30分足らずのアルバムに余すところなく敷き詰まっていて、聴いていて、書いていて、堪らない気持ちになる。

 もう、聴かなくてもいいくらい聴いた。それでも何万回も再生した。

 

 久しぶりに聴いてみて、こんなにも青春だったかと思う。

 悲しくて、苦くて、酸っぱくて、マスターベーションで使ったティッシュみたいに汚くて、湿っぽく埃臭くて、狂おしいくらい愛しくて、美しい。

 

 

 親友と呼べる友だちとバンドを組んでいた。

 自分には才能があると信じていた。

 だから、才能がないことを認めてしまったとき、私は言い様もなく打ちのめさた。才能がないということは、正確には存在しないことで、才能がないのではなく、結局のところ、続けるだけの熱量がないだけのこと。芸術やスポーツが私たちを裏切ることはなく、努力しきれずに裏切るのはいつも人間だ。

 私は自分の才能を裏切り、詰んでしまった。

 そのかわり、文章をしきりに書くようになった。

 

 

 2年くらい前にバンドメンバーの家に集まって、andymoriの解散ライブのDVDを見た。

 最初は3人でワイワイやってたのだけど、そのうち無言になって、なにかを諦めた大人の顔になって、酒臭い息をひそめながら、それはもう観賞というより感傷で、画面の中で音楽に燃えていく彼らを見守る、という有様だった。

 最後の曲が終わりDVDが吐き出されて、私たちはとくになにも感想を述べず、ソファに座ったり、うろうろしたり、酒を片付けた。

 悲しかった。

 andymoriになりたかっただけだったことに気付いたのだ。

 なれるわけがなかった。andymoriではないから。

 

 このとき私は、私たちはもう終わったんだ、と身に染みて思った。

 

 

 andymoriの思い出はこのように複雑な想いが散りばめられていて、今では「よーし今日も聴くぞ」という気にはなれないでいる。

 それでも時々、こうして聴いて、それぞれのアルバムに見える景色を愛おしく思う。

 悲しくも美しく、喜びである。

 andymoriは、私にとっての宝だ。私の青春。