会社のエントランスに笹が飾られていて、なんだろ、と思っていたけどそうだった、七夕の短冊である。
私は短冊に5つ、願いを書いた。
・はやく一人前になって心に余裕ができますように
・ありったけの金。有無を言わさぬ金が欲しい。
・いるかの背に乗ってどこか遠い海で人知れず泣きたい
・エレベーター工事よ、はやく終われ
・山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)
もはや願いでもないのだけど、叶えばいいと思う。いるかに乗りたい。
そんな短冊の垂れさがっていた笹はしかし7月8日になっても依然としてエントランスに晒されていて、黄色くなった葉はみすぼらしくエアコンの風に揺れ、社員の欲にまみれた短冊はなにか物々しい影を差していたので、見るに堪えないこと千万だった。
それに、7月7日を過ぎて飾られたままの短冊は「叶えられなかったお願い」みたいで悲しくなる。しょせん戯言なんだ、と思わされて短冊に乗じてそのうしろで首をくくりたくなる。死をもって幸福とは考えさせられる。
だが今朝、綺麗さっぱり片付けられており、平生の殺風景なエントランスに戻っていたので安心した。やれやれ、私の願いは無事、残酷な神に届けられたようだ。
ところで私が新たに不安になったのは、私たちの書いた短冊の行方である。
私が書いた短冊そのものはどうなったのだろう?
文字によって発現したる「願い」そのものは人間が感知できない力となって神のもとに届けられているのだろうが、その媒体となった短冊そのものはどうなってしまったのだろうか?
燃えるゴミ、だろうか?
悲しい。
笹の「撤去」をするとき、燃えるゴミの大きなビニール袋が用意され、そこに丸ごとずどんと、笹もろとも短冊は放られてしまったのだろうか?
たしかに、人々の欲望が集積した笹は醜くて、醜念(しゅうねん)の権化だったけれども、そんな「撤去」の仕方はあんまりじゃないか?いくらなんでも人間を馬鹿にしているとしか思えない。うんこだって清らかな水に流されるのだ。
理想は、祈祷してほしい。
神社の一角で、神の炎で、処女にお焚き上げしてもらいたい。おっさんにやられるよりか、やっぱり処女がいいだろう。純潔だから。ゆるキャラでもいい。子どもでも十分だ。とにかく純潔なものに焚かれたい。
おっさんに焚かれるなら、千日回峰行をまっとうしたおっさんにやってほしい。10日間不眠不臥断食断水でやってほしい。
そのくらいじゃないと駄目だ。
燃えるゴミに突っ込むなんて愚かである。
人間の欲望の沁み込んだ文字を無造作に捨てるなんて、きっとバチがあたるだろう。あまりにも軽んじている。
でも、どうせ燃やされるんだな、とも思う。
焼却場で、煙もなく環境にできるだけ負担をかけずに、透明な熱量になって空に溶けていくんだな。
それはそれでなんだか詩的な様相である。
私は空を仰ぐ。曇天。