蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

健康という名の宗教

  小学生時分から、大人になったら絶対に煙草をやろう、とかたく決意していた。

    どうしてなのか自分でもわからない。

    ひとつには、煙草のにおいが好きだったからかもしれない。小学生時分は街のいたるところで喫煙している人がいたので、その副流煙を吸い込むなどして楽しんでいた。いい香りだなぁと思っていた。それがクセになったのかもしれないし、喫煙者がなんだか格好良く見えたのが心に留まったのかもしれない。理由はいくつもあるし、断定はできない。

    保健体育や健康番組でいかに煙草が危険であるか説明されても、喫煙者の肺がドロドロに煤渡っている画像を見せられても、動じなかった。級友たちは「絶対に煙草はやらない」と誓っていたが、私は違っていた。

    絶対に、20歳になった瞬間に、コンビニへ走る。そして、酒と煙草を買う。そう誓っていた。

    20歳になった瞬間、午前零零時零零分、私は玄関を走り飛び出して、セブンイレブンまで疾駆し、よくわからないのでテキトーな番号を言って一番重いセブンスターを買い、帰宅して喫煙したものだ。めちゃくちゃ重いやつだったのであっという間にヘロヘロになった。酒も買った。グリーンラベルだ。ふたつとも、美味しさはよくわからなかった。

 

    どうして体に悪いとわかっていながら煙草をやるのか?と、非喫煙者に訊かれることがある。自分の体が大切ではないのか?死にたいのか?じゃあ死ねば?と半ギレで勝手に論をすすめられるが、死にたいわけないだろアホ。

    喫煙していることを存命中の父にバレた時、怒られた(バレるもなにも隠していなかったが)。

自傷はやめろ。なにが嫌なことがあったんだ?おれの与えた金で煙草を買うな」

    自傷じゃない。はっきりそう言った。めったに表立って真っ向から歯向かわない私が反抗したので、父は面白くなさそうな顔をした。

    父に対して反抗的だった私は、その後も父から貰った金で煙草を買い続け、さまざまな種類を試し、自分に合うものを探した。

    健康なんてどうでもよかったし、健康に気にかけてもいつ死ぬかわからないし、天命をコントロールしようとすることは烏滸がましいことである。私は食べたいものを食べ、吸いたいだけ煙草をやり、酒を飲み、死のう。父への反抗心からその機運はますます高まった。

 

    父は仕事柄、健康には気を遣っており、最近は死ぬまで週に一回、健診をしていたようだ。週に3回テニスをやり、栄養バランスを考え抜いた食事を摂り、肉体の年齢は若さそのものだった。

    しかし、なんと、旅先で酔っ払って階段から落ちて頭蓋骨が粉々に砕けちって、顔の穴という穴から血を流して、あわれ、60代半ばで死んでしまった(何歳で死んだか忘れた。2月に死んだばかりなのに)。

    バカが!と思った。

    制約して健康に気違っていたのに、健康とは全く関係のない事故で死んだのだ!

 

    ますます、欲を抑えて健康でいようとするのはなんのためなんだろう、天命はコントロールできないのに、と思うようになった。

 

 

*****

 

 

    大学1年生のとき、健康について考えるウェルネス科目が必修であったので嫌々受けていた。なぜ大学に入ってまでこんな保健体育みたいなことをやるのか、理解に苦しんだ。

 私は自分の納得いかないこと(要するに気に入らないこと)をやらされるのはとても嫌なので、反抗していた。

 金曜一限という最悪の時間に設置されていた講義だったので、9時の15分前くらいには教室に着席し、ディスカッションの要素が多かったので、グループを取り仕切って発表し、レポートもたぶんいの一番に提出した。

 そうして、「この科目はクソッタレの時間泥棒の授業料泥棒であり、金曜一限という最悪な時間に設置すること自体なにひとつウェルネスではなく、他人の健康事情なんて知ったことか、好きなように生き、そのかわり責任を負う、ソレがいちばんウェルネスなんだ」といったことを最後の授業で発表した。

 内部工作員みたいな生徒だ。

 私が教員だったらこういうクソ生徒は落第にしたいところだが、生憎私はしっかりしたレポートも出していたし、授業態度も良かったので、S(最優良)の成績を貰うことができた。また、私の批判は筋が通って論理的だったので評価もされた。よい教員である。

    

 

*****

 

 

 欲望をおさえてまで病的に健康であろうとする人がいる。

 健康食品ばかり食べ、体に悪いとされているものは一切口にせず、味気のない牧草みたいなパンばかり食べてサプリをがぶ飲みしている人は少なくない。

 そういう人たちが自分なりに勝手にやっていればいいのだけど、周りの人に価値観を押し付けてくる場合は、害だ。

 美味しく食べていると「それは体に悪いよ」とか「それに含まれている肉は発がん性物質で」なんて訊いてもいないのに語り出す。

 こういう存在の方がよっぽど発がん性である。そうして、私を愚者を見下すような目で見てくる。

「健康に気遣えず自分の身体を大切に出来ない愚かな犬。犬だって健康的なフードを食べているのに、なんて愚かなんだろう」そう思われているのだろう。

 

 

 バカが。

 

 

    と、私は単に思う。

 たとえどれだけ健康に気を遣ったとしても、いずれは死ぬのだ。その死に方だって誰にもわからない。食事に気を付けていたおかげで苦しんで死ぬかもしれないし、毎日コーラを2リットル飲んでいても100歳までボケないで生きるかもしれない。わかりゃしない。

 わかりもしないことに一生懸命になれない。

 それに、長生きすることがイコール良いことだとは思えない。

  長く生きても苦しみが長引くだけだし、死を遠のけると現世にとらわれすぎて所詮この世が仮の世であるということも忘れ、本当の永遠や真理やなにか大切なものを忘れてしまうのではないか。

 とくに現代は来世のことやこの世が仮の世であることを忘れがちになっている気がする。

 こういう理由で「健康志向批判」をする人は滅多にいないだろうけど、「健康」にすがっている人々は宗教みたいだし、健康こそが生きる目的で正しいことなんだと頭から決めつけている人は、なにか「生きる」ということをはき違えている気がしてならない。生きることには理由も意味もなく、たんに生きているだけであって、死んでいないということでしかないのに。生きているうちに名声を得ることが目的であったとしても、結局は死んでしまうのだ。せいぜい、動物として生命の意味を見出すのなら子孫を作ることくらいである。

 だから、「健康」であることを生きる意味にするのはおかしい。私の頭の中でその二つはうまく結びつかない。「何かをするために健康に生きる」ならわかるが。

 だいたい、そういう人は浅はかで、なにもしたいことなんてなくて、自分とは何かという命題に対して健康に生き続けることでしか答えを見出せず、それは何の答えにもなっていなくて、ただ生き永らえているだけの、現世の目先の「存在」のようなものに憑りつかれているのだ。

 

 

 私の理想としては、健康でぽっくり70歳くらいで死ぬことだ。

 好きなものを食べ、好きなように煙草を喫み、好きなように暮らす。

 そうあれるように毎日東の方角に柏手を打ち、念仏を唱えている。祈るしかない。海辺で三跪九叩頭して焔を焚いている。口琴を鳴らしながら街を練り歩いている。時々、虫の命を助ける。来世のために。

 嘘である。