蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

あの子の名前は輝いて見える

    と、排尿をしていて思い出したことがある。

 高校生の頃の友だちのことだ。

 彼は猛烈な恋をしていた。

 

 その恋の相手というのが、学年でいちばんの美少女だった。

 一番頭のいいクラスにいて、よく知らないのだけど一年間に5人くらい彼氏が遷り変っていて、すこし精神的に弱いけど、瑞々しい肉体をしていて、私のような教室の隅でカナブンの脚を毟っていた陰(いん)の者にも陽(よう)の者と分け隔てなく接してくれる、男女から人気のあった、その子であった。

 友だちは、はっきり言って、ブの類であった。

 ブの類というのは、要するに醜男のことである。ニキビだらけで、笑顔の可愛い彼であった。

 本来であれば直視することすら許されないような相手に、彼はおぞくも恋に落ちてしまったのである。

 

 そんな恋に落ちて悶々とした日々を送る彼の言った言葉が、あれから6年経った今、排尿中に思い出された。

 

「あの子の名前を見るだけでドキドキする。名前が好きだ。もう大好きなんだよ」

 

 ああ……。

 彼はほんとうに恋をしていたんだなぁと私はジョボジョボやりながらしみじみ思った。

 

 好きな相手の名前すらも好きって、とてもよくわかる。つくづくよくわかる。

 好きな人の名前ってどうしてあんなにドキドキするのだろう。名簿一覧で好きな人の名前を見付けただけで、名簿を投げてしまいたくなる。教室のドアのかげからそっと一枚の名簿を覗きたくなる。そして、ちょっとずつ近づいていって、その子の名前を、その名前だけを何時間でもずっと見ていられる。

 自分の部屋でその子の名前をそっと書いてみる。

 ああ、ここのバランスが難しいんだなとか、あの子の書いた字はなんだか可愛くていい匂いがするんだよな、とか考えて、いてもたってもいられなくなり、でもどうすることもできなくて、自慰をしたくなるけどあの子を汚したくないから、しない。結局する。月の光の中で。

 朝起きると机の上に、プリントの裏に自分の書いたあの子の名前が残っていて、恥ずかしくなって丸めて捨てる。

 

 そんなことをしてしまう。

 

 好きな人の名前ってすごい力を持っている。

 文字ってすばらしい発明だなと先人に感謝する。

 声に出して読んでみる。書いてみる。眺める。見つめる。その子の名前があるだけで、心の奥にじっとその子の微笑みや淡い思い出のような期待が沁み込んでいく。書けば書くほど、自分のものになる気がしてくる。

 

 ためしに、自分の苗字の下にその子の名前を書いてみたら、あまりにも罪で、すぐに消してしまう。消して、もう一度書いて、再び消す。

 アドレス帳。眺める。どうにかして手に入れた好きな子のアドレス。意味が分からない文字の羅列が愛しい。この数字はどんな意味があるんだろう、なんて考えながら、アドレスとその名前を眺めるだけでメールはできない。

 何回もメールしようと考える。何日でも考える。やっと作った文面をもう何日も下書きにしまっていて、結局出せないまま季節は過ぎていく。

 

 彼の名誉のために、その恋がどうなってしまったかは書かないでおこう。

 

 

 排尿しながら、そんな恋を思い出していた。

 あれは、絶賛片思いでないと味わえない時間だったんだ。

 ぶるっとして、手を洗って、仕事に戻った。