蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

小説書いてるの?恥ずかし〜い!っていう失われた感情

  く考えないまでも、小説を書いてるなんて恥ずかしいことだ。

    でもそんな感情はとうの昔に失くしてしまったな。

 

    小説書くのが趣味なんです、と人に言うと、2つの反応が見られる。

    ひとつは、え!すごーい!、もうひとつは、え?マジ?である。

    後者はそれ以上趣味の話に触れられることはなく、口無沙汰を誤魔化すためにアイスコーヒーを啜ったり、まったく別の話に変えられたりする。天気とか。

    その反応が正しいかどうかではなく、自然な反応のひとつだと私は思う。

 

    小説を書くということは自分の脳内や無意識やひどい妄想を具現化することに等しく、その人の書いた小説を読むということはその人の内面に直接触れることと同じことだ。

    昔、中学生の頃書いた漫画や、性欲の露わになった童貞くさい小説、メロメロファンタジーなゲームの設定シナリオ、メンヘラでも書かないだろうみたいなとりとめのない詩、そういったものは俗に「黒歴史」なんて呼ばれていて、私ももちろんそういうのがあるわけだが、今一人でもそれを見たら恥ずかしくてたまらないし、もしも誰かに読まれでもしたら、ましてや音読されたら慚愧の念に堪えず発狂して髪の毛を毟りながら玉川上水に飛び込むかもしれない。

    中学生の頃、それを書いていた当時はそれがそんな致命的なものになるなんて思っていなかったように、今私が書いている小説や140字小説や、あるいはこのブログだって、いつかは鋭い牙を剥くのだろう。

    そうなる前にやめたいところだけど、やめないことはわかっている。黒歴史を量産しながら生きていく覚悟はいいか?おれはできてる。

 

    バンドをやっていた頃、聴くに忍びない恥ずかしい曲を書いては人前で歌っていた。

    それが快感だった。

    もっとおれを見ろ、おれを感じろ、全身で!と思っていた。

    また、バンドは観客を動員しなければならないため、身の回りの知人や家族にしきりに宣伝していた。歌うから来いよ。いい思いをさせてやる。来てください。お願いします。ってな具合に。

    そういう経緯もあって、人に創作の趣味があることを告げるに憚らなくなり、小説の趣味であっても、わざわざ公言はしないけれども、言及されたら包み隠さず言うようにしている。

 

    創作を晒すなんて、先ほども書いたように、己の裸を晒すに等しい。

    え?マジ?って反応をする人はその感覚が強いのだと思うし、そう言語化できていなくても、人の裸を正面から見ることに嫌悪感を抱くように、創作していることについて根源的な嫌悪感を持っているのだろう。それは根源的な恐怖とも言い換えられるかもしれない。

 

 

    書く側としては、その心を大切にしたいと思う。書くということは己の裸を晒すくらい危険の伴うものなのだ。

    たとえフィクションだとしても、どんな虚構も現実の一部から派生したものであって、うんこがなければニオイは立たないように、あからさまにさりげなく、文字の中に自分というものが潜んでいる。

    ある意味危険な遊びをしているのだ、ということを忘れちゃいけないのだ。

 

    でも、恥ずかしいことではあるだろうけど、決して貶めるような感覚は持っていない。

    私は、自分に創作の趣味があることを誇りに思っている、大々的な露出狂でありたい。