東京国立近代美術館で催されている高畑勲展に行ってきた。
早速それとは関係のない話だけど、催す、という言葉、いかんせん使いにくい。
イベントが催される、祭が催される、等なにか「開催」される場合に使われる言葉だが、こいつ、「おしっこをしたい」ときにも使われるではないか。
なぜなのか?
おしっこは催し事なのだろうか?「開催」されるものなのだろうか?祭の一種なのだろうか?
このせいで、東京国立近代美術館で催されている、と書くと、企画展が催されていると同時に、だれかがおしっこしたくてウロウロしているみたいでしまりが悪い。頻尿みたいにキレがない。
たしかに、「フィーバー」という点では祭と似た部分はあるけれど、決して「開催」などといった大々的でハレ寄りの行事ではなく、逆にこそこそとしたケガレのものであるし、おしっこをすることは日常的な褻(ケ)の時間であるから、「催す」という動詞を用いるのは適切ではない。
ユーモア、というやつか。ユーモアで使っているなら仕方がない。
そんなことはどうだって良くて、私は「高畑勲展」に行ってきたのだった。
高畑勲の作品に熱心かというとそういうわけではないのだけど、大学時代に授業の研究発表で『かぐや姫の物語』を扱ったことがあって、その際に氏のことと作品をそれなりに調べた経験があり、思い入れもあったので行ってみた次第。
三連休最終日ということもあってか、想像以上に混雑していた。
年齢層はやや中高年が多く見受けられたが、小さい子どもから私くらいの青年もちらほらいて、老若男女問わず列を作っていた。
『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』など誰もがその名前を知っているアニメーションから『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』、そして『かぐや姫の物語』といったジブリ作品を世に発表した高畑監督の功績を、氏の子細なメモや絵コンテなど遺されたものを頼りに讃え、日本のアニメーションに与えた影響を探っていく、という趣旨の企画展である。
高畑監督は絵を遺したわけではないので、展示されているイラストやカットなどは、一緒に仕事をしてきた仲間たちの仕事であるのだが、その中には宮崎駿のものもある。
ひとつひとつ場面を知らなくても、アニメーションがいかに計算されて作られているのか見られておもしろい。
アニメは動画だから、絵の一枚一枚を見ることは、一般的にはあまりない。それを見られるだけでもこの展示は見ものだろう。
人物の造形は削ぎおとされ、動きの残像を捉えられるように抑制されている。だけども、手を抜いているのではなくて、その線には一切の無駄が看過されない緊張感があり、洗練されている。
高畑監督の遺した作品メモや設定資料の、その字の淡泊さとそれに反する文章量に圧倒された。
美しい字ではないのだけど、行と列がきっちりしていて神経質さと完璧さがうかがえた。走り書きではないのだろうけど、それはあふれ出る思想やアイデアを一滴もこぼさないように急いで且つ丁寧に書かれた熱量を秘めていて、その展示だけで高畑監督の人間性や作品作りへのこだわりがわかるというものだ。
一緒に仕事をしたらとことん絞りつくされそうだし、実際にそうだったのだろう。
私がメインで楽しみにしていた『かぐや姫の物語』の展示では、桜のシーンの原画が見られてよかった。
極力少ない線と色で描かれた桜の大木は、その背景画だけでも作品として十分に鑑賞に値するものだと思うのだが、展示室で上映されていたそのカットと見比べると、動画になると生命を吹き込まれより美しく、力が漲っているのがわかる。
そう、この企画展では設定資料→絵コンテなど制作過程の資料→原画→動画といった具合に、一本のアニメーションが作られる段階を踏んで展示されているので、絵の中の世界がどうやって命を吹き込まれていくのか眺めているだけでも勉強になるし、なんとなく流し見ていたOPカットにどれだけの労力が使われているのか知る機会にもなって反省することだろう。私は家に帰ってからハイジのOPをエンドレスで見ている。
高畑監督が偉かったのは(ずいぶん上から目線な言い草だ)、作品ごとに作品テーマと、技術的・アニメーション美術的な、表現方法のテーマがあったことだ。
一話完結の短いエピソードの演出を任されたときにはそこを実験場にしてさまざまな表現をしようと試みていたというし、とことんリアリティを追求したらどうなるのかとか、『ぽんぽこ』では時代との衝突を描き、『火垂るの墓』で文学をアニメに取り込み自分の作品に落とし込めるその解釈力の高さが見られ、そして『山田君』と『かぐや姫』における圧倒的なまでの線の少なさの追求、などなど、それぞれの作品に「挑戦」がある。
ただ単に時代性のある作品を作ってウケることはあるいはこの業界では、簡単なことなのかもしれない。なぜなら、ウケる作品を作ればいいだけなので(いやそれが難しいんだよ)(上から目線な言い草だ、何も知らないくせに)。
現実的には配給会社との締め切りの関係や金銭的な制約、人材の不足などさまざまな問題があって、高畑監督のような、芸術的な挑戦は難しくなっている。
アニメは一人で作れるものではなく、みんなで作るものであり、そのみんなには家庭があって生活があって、それぞれに制約があるのだ。
アニメ大国日本において、はたしてアニメーションの自由度は低い。
売れるアニメを作らなければ生き残ってはいけない。
アニメ先進国の日本において、アニメはあるいは貧相なのかもしれない。まだまだ「売れる」ことを前提としなければ作品は発表できないし、制作すらさせてもらえないのだ。それは漫画にしたって同じことなのかもしれない。このことはつまり、日本という国が芸術に対して抱く観念そのものを示しているように思う。
そういった葛藤の中で高畑監督は闘い、挑戦を続けてきた。
それを可能にしたのは、あの数百にのぼるメモ帳から垣間見えた熱量だったのかもしれない。
高畑作品の「挑戦」はその作品が終わってしまえば終わるものではなく、その作品を踏まえて新たな段階へすすんでいくということが展示からわかり、氏が生涯作品を作り続けることができたモチベーションはそこにあったのではないだろうか。
「高畑勲展」は私たちの国が世界に誇る文化であるアニメーションを見直す機会になるし、日本を代表する文化にまで作り上げた高畑監督の功績には脱帽する。
展示は豊富で、資料を全部読んでいると丸1日かかってしまうだろう。
流し読んでいた私も2時間はかかった。
出口から出たときに、ぶるっと震えて、おしっこをしたいことに気付いた。催しものに気付かないほど熱中できる企画展だった。
帰りに神保町の「さぼうる」という喫茶店でクリームソーダを舐めた。
おいちかったです。