蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

お盆帰り

 に帰ると犬がいるというのは、宝石を持ち歩くことよりも素敵なことだ。

 私はそういう生活を16年続けていた。

 犬がいない人生の方が短かいので、亡くなったときはかなりの喪失感だった。去年の年末のことだ。

 犬が死んでから自動車の運転がしばらく危険になるくらい朦朧としていて、このブログにも以前書いたけど家の駐車場から出すときに擦ってしまって、その傷跡を見ているだけで男としての尊厳を傷つけられたような、むな悲しい気持ちになった。

 帰宅してドアを開けたときに犬が迎えに来ないことは、歯車の歯をひとつ損なったように私の世界をぎこちなくさせた。

 リビングをつい見て犬はよく寝ているか確認してしまう視線の先に、犬がいないということに慣れるまでに半年以上かかった。

 最近ようやく、犬のいないことにも慣れてきて、彼女(犬)は私の人生の滋味のように魂に沁み込んで私が立ち上がるのを支えてくれるようになった。たとえば朝会社に行きたくないベッドの中や、悲惨な相続の渦中で人々の醜さを目の当たりにし傷つけられたときに、犬のことを思い出しては救われる瞬間がある。

 でも、やっぱり、こういうときこそ側にいてほしい。

 ごわごわした毛を撫でたかった。目を合わせて言葉にならない会話をしたかった。ぬくもりを感じたい。寝ているときの愛しいいびきをもう一度聞きたい。

 それだけで、どれだけ、どれだけの、どれだけなのだろう。

 考えても仕方のないことはたくさんある。欲しくても二度と手に入らないものは存在する。

 

 

 先週の土曜の夜に、夢に犬が出てきた。

 犬はいつものようにリビングのソファに寝ていて、私が近づくと顔を上げて、口を老婆のようにもごもごさせ、まどろみの中にまた沈んでいく。

 古い窓からあたたかい光が差していて、その中で犬は眠っている。窓にはゴーヤが成っているツタがかかっている。

 私は隣に腰掛けて、彼女の耳から首、背中をそっと、背骨に沿って撫でてやる。

 彼女は腰が悪くて、晩年の2年間は排泄がコントロールできなかったため、ずっとおむつをしていた。私は何百枚のおむつを替えたことだろう。

 最近、おむつを替えていないな、と彼女を撫でながら思った。

 あとで替えてやらなきゃいけないな。蒸れてしまう。蒸れるとニオイがするし、彼女も嫌がる。女の子なのだ。

 どうして私は長いことおむつを替えていないのか、よくわからなかった。毎日毎日替えていたのに、なぜ久しく替えていないのだろう?

 おむつの作業は汚いし大変なのだけど、それでも愛しかったし、おむつを替えてやって満足げな彼女の顔を見るとこちらもホッとするものだった。私はおむつを替えなければならない。

 

 

 そこで夢が覚めた。

 その時、どうして私が長いことおむつを替えていないのかわかって、久しぶりの強い喪失感に、しばらく動けなくなった。

 もう、彼女のおむつを替える必要はないのだ。

 永久に。

 

 

「そうやって夢に出てきてくれたのは、きっとお盆だからだよ。おうちに帰って来てくれてたんだね」

 その夢の話を恋人にしたら、彼女はそう言って、私の手を強く握ってくれた。

 その手が温かかった。