においは人間の記憶に最も残りやすく、記憶を呼び覚ましやすい。
たとえば私は、あたたかい土のにおいを嗅ぐと、小学校の校庭の隅にあった小さな農場を思い出す。そこで芋を作ったものだ。その芋を蒸かしたものだ。あの頃の太陽の香りを思い出す。
プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭、紅茶につけたマドレーヌからたちあがった香りが主人公の記憶を呼び覚ますシーンは特に有名だが、そのことから特定のにおいが特定の記憶に結び付くことを「プルースト現象」と呼ぶらしい。
ちなみに、なぜ20世紀を代表する世界的名著である『失われた時を求めて』の冒頭があまりにも有名なのかといえば、多くの人は冒頭で挫折するからである。
におい。
誰しも固有のにおいがある。
皮膚に沁みついている、その人の生活のにおい。それは煙草くさかったり、植物的なにおいがしたり、汗のにおいがするかもしれない。
それぞれに固有の指紋や虹彩があるように、においにも固有のものがある。同じにおいを持つ人はいないのだ。
だけど、似た系統のにおいの人はいる。
思えば、私がこれまで付き合ってきた女の子はみんな似たようなにおいだった。
言葉では表現しようのない漠然とした香りなのだが、それはどこか懐かしくて、温かい砂のようで、古代の海のように生命の純潔な力が漲っているような、そんな香りなのだ。
私は恋人のにおいが大好きだ。
今の恋人のにおいは今までの誰よりも私の心をとらえていて、隣を歩いているとものすごく安心するだけでなく、ドキドキさせてくれる。
彼女の体臭がきついわけではなくて、一般的な人間レベルだと思われるのだが、なぜか私には強く感じられる。彼女のにおいに惹きつけられている。
こうやって、香りに惹きつけられるところが動物らしいなと思う。だけど、動物なんだからこれで正しい。私は嗅覚によって自分に合うDNAを嗅ぎ分けているのだ。
彼女の香りは彼女からだけでなく、街のどこかで不意に香るときがある。
エレベータ、改札口、道端、コンビニエンスストア、バス、本屋、公園、などなど。
誰か彼女と同じにおいを持つ人間がいたのだろうか、と書くと「同じにおいを持つ人はいない」との矛盾になるけれど、現に彼女の匂いは時々私の身の回りで突如出現して、どこにも影を作らないのだ。
その香りを嗅ぐと、記憶の中で彼女が呼び起こされて、私にただならぬ安心感を与えてくれる。
朝、仕事に行く前にその香りが嗅げたら、とても幸福になれる。頭がぼーっとして、まどろみに似た眠気を感じる。だけど目が覚めるような心拍数が胸を打つ。次第に食欲がわいてくる。突如猛烈な渇きを感じるが、そこには潤いもある。息を吐くのを忘れて過呼吸気味になる。風景がぐにゃりと曲がったり、彼女が空中浮遊している幻覚?を見る。だけどそこに彼女の影はない。
恋人のにおい中毒なのかもしれない。