蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

インターネッツは嘘の掃き溜め

  の趣味はインターネッツで嘘をつくことである。初手、社会不適合者か?

 

    このブログを何度も読んでくれている人はわかるだろうが、私はしょっちゅう、しょうもない嘘をついている。

    たとえば、私が街を歩けば女どもが股を濡らしてすがりついてくるだの、天に手を掲げるとスズメが数羽指先に止まる特技があるだの、およそ話の本筋とは外れたところで嘘をついては顰蹙(ひんしゅく)を売買しているため、すっかり信頼を失ってしまった。これはもう恢復できない。終わった。

 

    また、よく調べもせずに(というか一切調べないで)テキトーな情報を垂れ流しているため、情報そのものの信憑性が低い。ほとんど噂レベルである。だから枕詞で「うろ覚えなのだが」とか「知らんけど」みたいな保険をかけておくことが多い。

    「〜と誰かが言ってた。気がする。うろ覚えなので知りたい人はちゃんと調べるように。」などと、話の後で保険をかけるように決まり文句をつけることにしている。これを枕詞ならぬ、掛け布団言葉という。

 

    また嘘をついた。

 

    でも、インターネッツ上でならいくらでも嘘をついてもいいと私は思っている。

    どうしてかというと、インターネッツ仮想空間であってこの画面の向こうに人間がいる確証など無いからだ。証明し得ない。

    インターネッツは仮想だ。現実じゃない。そういう観念が私にまとわりついている。

    現実じゃないなら、現実ではできないことをやったほうがいいよな、と思う。それがたとえばどうでもいい嘘をつくことだし、テキトーな情報で気楽に話すことなのだ。

 

    ↓

 

    私のような人間がいるから、インターネッツ上の情報はいつまで経っても確たる信憑性を得られないのだろう。だから論文の参考文献をインターネッツから引用できないのだ。

 

    そもそも本当か嘘なのかわからない情報が氾濫しているから、インターネッツをうまく使うには土台となる教養と能力がないと情報の選り分けができない。そういうことのために教養や勉強による土台作りはあるのだ。

    テレビや新聞による偏向報道はひどいものだけど、インターネッツの報道だって本当かどうか怪しいものだ。

    ただインターネッツには情報量があるというだけで、その多角的な情報は自分の頭の中で処理して真偽と立場を判断していかなければならない。それにも教養や能力が必要となるから、インターネッツを使うのはよっぽど難しい。テレビで流される情報を仕入れるほうが思考停止していられるから楽だ。

 

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    私は自分がインターネッツ性虚言症ということもあって、特にTwitterの情報はほぼ信用しないことにしている。

    気になる呟きがあったら、ちゃんと新聞や信頼のおけるサイトで調べてから、真偽を判断する。

    Twitterやブログでは作り話みたいな憎悪を誘発する話や扇動的な話で溢れているけど、それが真実だとは限らない。作り話かもしれない。少し上手な人なら、140字小説を書くみたいに、そのくらいの嘘を軽く作るだろう。

    

    いやいや、無駄に嘘をつく意味ないじゃん、と否定する人は、知らないのだ。虚言症は嘘をつくことに意味などといったものは求めていない。そこにあるのは「意味」というかしこまったものではない。嘘をついてしまうのだ。

    嘘よりも酷いのが、私もよくやる、テキトーな情報をいかにも本当らしく信憑性があるように流す人たちで、奴らは枕詞も掛け布団言葉も置かず、さも真実であるかのように見せかけてくる。

    

    情報の信憑性を判断する最初のフィルターが個々人の教養だと私は思っていて、教養がファイヤーウォールのように、氾濫する無駄な情報をはじいたり、右と左に分ける判断力を与えてくれる。

    高度情報化社会で大切なのは、ツールを使う能力と教養だ。

    でないと、ツールに自分が「使われてしまい」、情報に「扱われてしまう」。

 

     そして、ここまで書いたことを判断するのはあなた自身だ。