久しぶりにじっくり書いた小説を、友だちと恋人に読んでもらった。
今は便利な時代で、PDFファイルをLINEで即共有できる。江戸時代だったら、わざわざ飛脚を呼ばなければいけないところだ。
↓
読んでもらうというのは、緊張する。
なにせ、共有したものは遜色ない「自分」そのものであるから。
寝ている自分の肌を触られ、「あーここが荒れてるね」とか「お腹はスベスベだな」って見物されるようなものだ。
うまく書こうとするとうまく書けない。
指先のなすがままに、できるだけ何も考えず、水が器に合わせてかたちを変えるように、地形に沿って流れるように書ければ、一番いい。どうなったって、あとから直せばいい。
とはわかっているのだけど、なかなかそう、うまくいかない。無意識を書いていると、それは夢のように脈絡がなくなってしまうから。だから筋を考える。でも決して文体のことは考えない。
文体って、どうしようもないなと思う。ストーリーは学ぶことができても、文体だけは生まれ持って、吸収して、書いたものからしか生まれなくて、どれだけ村上春樹や太宰に似せて書いてもそれは「似ているだけ」であって自分のものではない。
容姿のように、身長のように、文体に対してはなすすべがないのだ。
結局のところ文体だけは変えようがないし、文体にこそ自分というものはあらわれる。
私の文体は、まさにこのブログだと思う。
だから小説もこんな感じで、肩の力を抜きつつ、ストーリーにしたがって、書いた。
↓
自分で書いてて、読んで、なにか引っかかることは必ず人にも指摘される。
どうなんだろう、と思っていることは人も「どうなんだろう」と思うものだ。今回読んでもらって、深くそう思った。
でも自分では、「どうなんだろう」の判断がつかない。どうなんだろうと思ってはいるのだけど、心の中で「どうなんだろう」と言語化してはいなくて、人に言われてようやく、自分の非というか、至っていないところを認めることができる。言葉を与えてもらったかんじがする。
その指摘されたところに向き合っていかなければならない。
それはつらく、困難で、綿で石を磨き削ぐような途方も無いことかもしれない。
だけど、その至らないところはまんま自分の心そのものだと思うので、私はそこに向き合って付き合っていかなければならない。
強さってそういうものだから。
読んだ人に「おもしろかった」と言ってもらえてよかった。
たとえそれがお世辞だったとしても、その一言でまた次の物語は進むことができる。良い風だ。