蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会の思い出

 まるで私が舞踏会に参加したかのようなタイトルだけど、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』といえば、ルノワールの絵画である。

 

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 大学生の頃、この世界的に有名な絵画を独り占めしたことがある。

 

 それを見たのは乃木坂の国立新美術館でやっていた、印象派の展覧会でだった。大学2年生くらいだった私は友だちと二人、夕方のおそい時間に入館した。

 平日の夕方のおそい時間、人はまばらで、信じられないくらい空いていた。

 ほとんど貸し切り状態で、ちょっと走るくらいでは誰にも怒られそうもなかったし、ベンチで横になっても誰も気にしないだろう。絵に触れることもできたかもしれない。そのくらい空いていた。

 だからどの印象派絵画もじっくり見ることができたし、流れに従わず順路を戻ってもう一度見ることもできた。

 あれほど充実した美術的時間もそうないだろう。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』ははたして薄暗い空間に照らし出されて、私を前にして壁にかかっていた。私は絵の前に佇んでいた。

 思っていたよりも大きい絵だった。

 その画面から漂うにおいと音があった。

 ぼんやり見ていると私もその舞踏会の空間にいる一人の男のような気分になって、踊っている小娘や若い男を見ながら、ワインを飲んでいる良い男性のような心持になってくる。

 人物たちはルネサンスロココやロマネスクのように舞台的なポーズをとらない。あくまで、現実の生活の一部のハレの日の一場面を切り取ったような、自然な佇まい、自然な笑顔、やわらかな光。そうした私たちがごく当たり前に見ている景色こそが、なによりも美しいのだな、と思った。

 ばっちりポーズを決めている宗教画も格好良いけど、私は素直な美しさと描く人の目の中を覗けるような印象派の方が好きだ。

 「印象派」って名前もいい。鑑賞の肩に力が入らなくてよい。印象を追えばいいわけだから、余計な知識も必要なく、心の印象に残った絵画を楽しめばいいのだ。思ったように好きなだけ楽しめばいい。

 

 ルノワールの目には、世界がこうやって見えていたのだろうか。

 やわらかで、幸福感があって、光は光らしく、陰は陰らしく、女は美しい生き物で、男にはすこし陰が落ちて見えていたのだろうか。

 ルノワールは女の子を現実よりも可愛く美しく描いたために、モデルの女の子と良い関係になることが多かったらしい。

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 誰だって、現実より可愛く描かれたら、なにか勘違いして画家を好きになっちゃうだろう。

 だけどルノワールの凄いところは、モデルの性格とか、モデルとの親しさとか、愛着とか、そういった中身まで描き出しているところだ。印象派の真髄と言えよう。

 そして、どんな人も美しく描けたのは、ルノワールが素直に人間を愛せる、人懐こい人だったからだと私は勝手に思う。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の前のベンチで、しばらくの間座って、じっと見ていた。

 絵画の前に立って鑑賞する来館者を含めて作品なのだろうと思った。

 その来館者も、私と同じように、絵画の中の誰かになっているんだろうな、ということが、はたから見ていてわかる。それだけこの絵画には人を呑む力がある。

 絵の一部になれる気がするし、私はこの光景を、ずっと昔から、生まれる前から、知っていたような気がする。そんな親しみすら抱かせる。

 

 すぐれた画家とは、すぐれた作家と同じように、誰しもの心の底にある風景を描ける人なのだと思う。

 それは共感を超えた次元にある、鏡としての作品だ。すぐれた作品はフィクションや絵でしかないのに、どうしてだろう、私たちの心を映し出してくれるものだ。

 

 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』はあのとき一生分見た。

 15分くらい、世界中で、私一人だけがこの絵画を独り占めしていた時間がある。そこで私はルノワールに会えた気がした。

 

 もう一度見たいと思っている。人の群れの中で鑑賞してもまた面白いだろうと期待して。

 

 まるで舞踏会に私が参加したみたいなタイトルだけど、私は確かにあの時、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会に参加していたのだ。