蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

跳躍こそ私の使命

 日は会社の運動会があった。

 会社の運動会があることがまさか現実にあることだとは思っていなかったのでありえないと思ったが、私の会社はもう40年近く毎年運動会をやっていて、それこそありえないことだと思った。その金を、ボーナスにまわしてくれ。

 

 早朝、6時半に家を出て、貸し切ったグラウンドまで片道2時間かけて赴く。

 眠い。寒い。集合場所に着くと上司が缶を持っていて、一本くれた。乾杯。今日の私の朝食は金麦だった。

 

 運動会なんて面倒くさいだけで、なにひとつ面白いことなんてない。

 家族連れの参加者が多かったので、子どもたちがわいわい走ったり跳んだりしているのを、酒を飲みながら楽しく見ていた。なんて微笑ましいのだろう。

 「さぁ!ちびっこたち!集まれ~!」とMCが言うと、子どもたちは集合してかけっこやら玉入れやらをするのだが、「ちびっこ集まれ」を合図に集まる子どもたちにふと懸念を抱いたのは私だけだったはず。

 「ちびっこ」と呼ばれてMCのもとに行ってしまうのは、子どもが自分が「ちびっこ」だと認識しているということである。自分を「ちびっこ」と認めているのだ。

 

 それでいいのか、ちびっこたちよ。

 

 3~4歳くらいなら自分をちびっこと思うかもしれないけど、小学校低学年くらいの年齢だったら自分をちびっことは認めたくはないはずだ。私はその時分そうであった。私を「ちびっこ」と呼んだ大人たちの睾丸を削いでいったものだ。

 だから、ちびっこ集合コールにしぶしぶ参加する児童がいるかと思って、舐めるように見ていたのだが、どうやらいない。素直に集まっている。

 子どもたちは、私よりもよっぽど大人だった。

 

  ↓

 

 

 友だちと呼べる同期がいないので、まったくもって当然のように、私はほとんど孤独に過ごした。職場の先輩も来ていたので、ときどき喋ったくらいだ。

 こうなることがわかっていたから運動会になんて行きたくなかったのに、新人ゆえに行かねばならなかった。

 でも孤独は慣れている。残念だけど。

 独りには独りの楽しみ方というものがあって、そのコツは常にニヤニヤしておくことだ。そうするとなんだか気分が良くなってくる。こんなんだから人が寄り付かないのだろう。

 

  ↓

 

 開会式で準備運動をした。ラジヲ体操第二である。

 単純な体操だけど、関節や筋肉がいかに凝り固まっているかわかり、こんなに大変なものだったっけと戦慄した。身体がバキバキいうのだ。

 今年24歳。

 これでは30代になるころには肉体年齢は60代くらいになってるんじゃないか。

 学生時代に運動をしておくべきだったのだ。

 

 それにしてもラジヲ体操ってつまらない。

 腕を大きく回すことになんの面白みも工夫も感じられない。肉体を鍛えるとはこういうことだから、要するにつまらない反復の繰り返しだから、刹那的な生を生きている私は常に面白みがないことには耐えられず、筋トレなど続いたためしがないのだ。

 周囲の人間もいかにも退屈そうに体を伸ばしていた。うんちのにおいがしてきた。誰かが退屈に任せて放屁したのだろう。

 しかし、ある運動を気に、空気は一変する。

 それが、ジャンプである。

 その場でぴょんぴょん跳ぶだけなのだが、それを始めると急に人々はにこにこしだして、ざわつきはじめる。

 楽しいのだ。

 私も、楽しくてついつい余計にジャンプしてしまったほどだ。

 なにがおもしろいのかわからないが、ジャンプって愉快な動作だ。

 シンプルな愉快さがある。それでマサイ族がぴょんぴょんする理由が了解できた気がしたし、知的障碍者が電車の中でぴょんぴょんしている理由も相わかった。

 楽しい。ただそれだけだ。

 

 私はこれから、ジャンプしていこうと思う。

 つらいとき、かなしいとき、ジャンプしてその時を跳躍して越えていこうと思う。

 

 運動会中、グラウンドの隅でしきりにジャンプしている、友だちのいない私の姿があった。

 だから人が寄り付かないのだろう。