蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ミサンガいつまでつけてた?

 学生時分、ミサンガが流行った時期があった。

 女子が糸をちねって編み、なんか、くれた。小学校の文化祭で配ったりもしていた。

 とくにサッカー少年たちはミサンガをよくつけていた。手首、足首だ。両方に装着する者もおり、どんな願いが込めてあるんだろうなと思っていた。

 

 私はミサンガにどんな願いを込めていたのだろう。

 今となっては思い出せない。

「図書室からずっと抜けているはだしのゲン』第2巻が戻ってきますように」とか「夜ご飯がハンバーグでありますように」とかどうせその程度だろう。私は凄惨極まる展開を見せる『はだしのゲン』第2巻とハンバーグが好きだったのだ。

 

 ミサンガは自然に切れたとき願いが叶うおまじないだが、果たして私は自然にミサンガが切れたことはなく、手が鉄棒のように細かったため、糸の輪を3日ほどで抜くことができ、次第にミサンガはヘロヘロになって給食の冷凍ミカンの皮と実の間にある白いクズみたいになって朽ちてしまった。

 何度かミサンガをつけたことがあるけど、すべてそうなった。

 おかげで返ってきた『はだしのゲン』第2巻は背表紙から分裂してボロボロの状態だったし、ハンバーグはそこまで好物でもなくなってしまった。

 あのとき、ミサンガをちゃんと切れるまで装着していたら、私の人生は変わっていただろうか?

 

 中学生にもなるとミサンガをつけている人口は激減、もはやその存在は時代の彼方に忘れ去られてしまった。サッカー部はあるいはつけていたかもしれないけど、サッカー部のような「陽」の連中と関わりがなかったので、わからない。

 みんな、ミサンガは自然に切れたのだろうか?

 私のように手から抜いただろうか、それとも自分で切っただろうか?

 誰もミサンガがどうなったのか語る者はいなかったし、願いが叶ったと叫ぶ者もいなかった。

 

 ミサンガをつけていたとき、なんだか手錠みたいで嫌だったことを、書いていて思い出した。

 願いという「呪縛」に繋がれているようで、見ているとだんだん重い気持ちになってくる。私の本当の願いとはなんだったのだろう?もしかしたら、恋だったのかもしれない、そう思いたいけど、小学校高学年の私は恋なんてよくわからなかったし、恋よりも今日の給食にグリーンピースが入っていないことの方が重要だったように思う。

 たとえそんな軽薄な願いでも、繋がれているのは苦しいものだ。

 だからミサンガに重い願いを込めるほど苦しくなるのだろう。きっとそのミサンガが切れるのは、自然ではなく、努力によって削られた糸がほつれて切れるということなのだろう。だから、努力が実を結んだとき、糸は切れるのだ。

 そう考えるとミサンガに込める願いは、肉体的な努力を要するものの方が良い。

 

 ↓

 

 そんなことを、今朝、足首にミサンガをつけた女子高生を見て、考えた。

 たぶん、勉強系の願いは肉体負荷ではないので、ましてや足首では、自然に切れないかもしれない。効き手首につけたほうが効率的に願いは叶うだろう。

 そんな無粋なことを、社会人になった私は、考えていた。

 大人になるんじゃなかったと、たまに思う。