まずはこちらの記事を読んでほしい。
これは5月に書いたブログで、私と恋人が行きつけだったイタリアン・レストランが消滅した悲しみを書いたものである。
私たちは思い出の一部を失うような悲しみを覚え、しばらくの間亡失とした日々を送り、何を食べてもため息ばかりついていた。
この記事を書いてから、何度かこの店のあった場所に足を運び、本当に営業していないことを確認した。その度に、確認しなければよかったと思った。閉店してしまった事実がより深く鋭く、私たちを傷つけたからだ。現実という名の刃になって。
その5月以降、イタリアンを食べる機会はめっきり減った。それまでは月に2回はイタリアンを食べていたのに、2ヶ月に一回くらいのペースに落ちてしまった。
あの好きだった店よりもさらに好きな店を見つければいいのだが、そう簡単に見つかるものではないし、良い店を見つけたとしても失われた店と比較してしまって「やっぱり価格はあっちの方が良かった」だの「あの店はすべてにおいて丁度よかった」だの文句を垂れ、悲しみ、そうしてイタリアンそのものに嫌気がさしたのだ。
イタリアンなんてサイゼで充分なんだ。シナモン・フォカッチオさえあればそれでいいんだ。私たちはグズグズと人生をつまらなく思うようになった。腐りかけのトマトのように。
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10月のある日、恋人が信じられないことを言った。
「友達が、あの店についこの間行ったって」
それは、あの店が消滅していない可能性を示唆するものだった。
だけど信じられない。
だって、僕たちは店がこの世から消えてしまったのをネットで何度も見たし、google地図だけでなく実地に赴いてこの目で店が消滅していることを確認したじゃないか。店はなぜか名前を変えてタイ料理屋になっていたではないか。
「でも、行ったと言うんだから、まだあるのよきっと」
信じられなかった。
再び、この目で見るまでは。
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行ったら、あった。
以前と同じ様相で開店していて、温かい光が灯り、ワインセラーが整然と構えられ、釜から出来たてのピッツァが湯気を上げて白い皿にスラリと載せられていた。それはまさしく、私たちの思い出そのものだった。
幻か?
キツネに化かされているのだろうか。
ここは東京の鬼門なので摩訶不思議があってもおかしくない。ピッツァだと思って食べたものが実はお好み焼きだった、なんてこともある。まぁそのくらいなら別にいいけど。
しかし、運ばれてきた白ワインはよく冷えていて爽やかな甘さで舌を愛撫し、魚のグリルはアンチョビの塩気とレモンの香りで素晴らしい思い出を与えてくれたし、きのこのピッツァは満点の出来、おれはきのこが好きでよかったと心から思えた。
あの店が、本当に帰ってきたのだ。
私たちは大いに喜んだ。
これからは頻繁に来よう。いつ消滅してもいいように。
それにしても、どうして店が消えて無くなっていたのに、また姿を現したのか、不思議ではある。
いったいどういうことなのだろう?
店のあった場所は、店の跡形もなく、のっぺりとした雑居ビルが立っていただけであった。それなのに、何事もなかったかのように、あの店はまた同じ雑居ビルの一階に店を構えている。
意味がわからないが、細かいことは不問とする。美味しければいいのだ。