この世にはいろいろな快楽があるけれど、「没頭」の快楽はどれにも代えがたい。
快楽に没頭するのではなく、「没頭」することそのものの快楽である。
私が覚えている最初の没頭は、幼稚園で絵を描いたときのことだ。私は年中さんか年長さんであった。
幼稚園の授業参観だったその日のカリキュラムは、前の席の子の似顔絵を描くことだった。
前に座る女の子の顔を画用紙いっぱいに大きく描いた。その子の真剣な顔を穴が開くほど見つめ、クレヨンを握りしめ、太く堂々とした線で輪郭をなぞり、いくつも色を重ねて肌を描き、眼を塗った。
そのときの温度を私は覚えている。
頬が熱くなり、全身隙間なく熱を帯びて握りしめたクレヨンが溶けだしそうだった。
そのときの空気の密度を覚えている。
たしか冬で、教室は暖房でこもっており、空気がどこにも逃げずにぴたりと留まっていて、呼吸を忘れたかのようだった。
私はたしかにあの時、没頭していて、温かくて深い海に潜ったような感覚に心地よさを覚えていた。
あの時描いた絵はどうなったのだろうか。
完成した絵を皆の前で披露したとき、空気がどよめいた気がする。どんな似顔絵を描いてやったのだろう。
あの時、私の描いた女の子は、今どこでどうしているのだろう。
その子とは同じ小学校に進み、同じ中学校に進み、同じ生徒会に入って、私が生徒会長で彼女がたしか書記で、彼女はとても勉強ができて、男子にも好意的に受け止められていたけどそういうところが他の女子の気に障ったらしく、詳しいことはよくわからないけどあまり良い思いをしなかったみたいで、僕とは別々の高校に進学して、彼女は地域でも有名な進学校に進み、そこで精神を病んでしまって、浪人し、図らずも僕と同じ予備校に通い、いつも下を向いていた。浪人する奴に図った人なんてあまりいないだろうが。
それからどうなったのかは知らない。
彼女に祝福があればいいと思う。
話が逸れてしまったけど、没頭は時間も煩わしい現実の問題も自分のことすらも忘れさせてくれる。
極度の集中力を要するから私はそう簡単にできるものではないけど、時々小説を書いていて、空腹を忘れるほど没頭できるときがある。
言葉が淀みなく出てきて、やめようと思ってもやめられず、体力の限界が来るまでキーボードを叩く指が止まらなくなる。
それは苦しく、息が詰まりそうで、心拍数が上がり、全身が熱くなる、危険にも思えることなのだが、それこそが没頭の快楽で、これに代わる快楽はない。
ただそれだけに没頭できるということは、幸せなことなのだ。