蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

折り畳み傘を買いたい

 り畳める傘、折り畳み傘。

 小学生の頃、折り畳み傘に強烈な憧れを抱いていた。

 折り畳み傘はちょっと大人の持っているアイテムに思えたからだ。

 

「折り畳み傘欲しいのだが」と母堂に訴えても買ってもらえなかった。

「普通の傘あるんだからいいじゃない」と一蹴。

 

 私が親だったら、同じように折り畳み傘を買ってやらなかったろう。相手は小学生男児である。ふつうの傘を持たせても一日で骨を折ってくる怪獣である。そんな男児に折り畳み傘なんて持たせたら一日でジャンク品にするだろうし、場合によっては怪我をするかもしれない。持たせるわけがない。

 

 中学生になってある程度物事の分別がつくようになると(たとえばダンゴムシを食べてはいけないとか、服を泥だらけにすると面倒なことになるということである)、折り畳み傘を買ってもらえた。

 安くて薄い、最低限傘の役割をギリギリはたせる代物である。

 私はうきうきしてそれを使ったが、カバーをものの数日で失くしてしまい、濡れた傘を通学カバンに放り込んでいたので、梅雨が明けると鞄の中はかび臭くなり、教科書はふにゃふにゃになってしまった。もっとも、置き勉だったので教科書のくだりは嘘であるが。

 

 折り畳み傘のカバーをすぐに失くす癖は最近まで治らなかった。

 カバーはもはや喪失のために存在しているとしか思えない。喪ってからはじめてあれがいかに大切なものだったか痛感するにもかかわらず、私は何度も失くし、折り畳み傘への愛情を損なってきた。

 完璧ではない傘など、存在価値がない。

 最近はもう、そういうことは嫌なので、カバーをきちんとカバンに入れ、使い終わったらすぐにかぶせ、保管に努めている。時々傘を広げながら、カバーどこやったっけと自分に自信がなくなり、怯え慌てるようにポケットをまさぐる。カバーはカバンの中である。

 

 私も大人になったのだ。

 カバーがずっとあり続けることは成長の証であり、犠牲の数の証明でもある。

 どおりで物事の分別がよくつくようになったわけだ。やたらと花の蜜を啜っていると職質されることなど最近覚えた。

 

 

 現在使用している折り畳み傘は無印良品のもので、最悪である。

 折り畳むと小さくならず、広げると逆に小さい。重くて愚鈍で持ち運びに不便で、それを差していると雨雲が自分の真上に重点的に覆い被さっているのではないかと思え暗い気持ちになり、頭痛がしてくる。

 最悪なのだ。

 だから買い替えたいのだけど、ここで「カバーを失くさなくなった」ことが裏目に出ている。

 これまでは、カバーを失くしたら、先にも述べたように完璧ではない折り畳み傘など萎んだ風船のようにくだらない代物であるのですぐに買い替えていたのだが、カバーを失くさなくなった以上、買い替える口実については失う羽目になったのだ。

 この傘は無駄に丈夫で、使いにくい割には乱暴に扱っても骨一本折れず、まったく干していないのに開閉も滑らかで、そういう点については一定の評価をしなければならない。そこだけは良品なのだ。

 だから、そうなると、買い替えられない。

 他の折り畳み傘を買うのに踏み切れない。

 

 どうやってさっさとカバーを失くしてやろうかと思いながら、秋雨の肌に張りつく冷たさに、ひとつ小さく震えた。広げると小さい傘なので雨をしのげないのだ。