詩ってあまり読(詠)まないのだけど、私の中に詩とはなにかという確たるものがあって、それを忘れないようにしている。
人それぞれ詩とはなにか、の答えを持っているだろうから、あくまで蟻迷路はそう考えているんだな、と思ってくれればいいし、思わなくてもいい。思ったほうがいいと思う。
詩とは、名前のない感情や言葉にならない風景や情景や情緒に言葉を与えるということなのだと思う。
夕暮れの海を眺めたときに動いた心の感じはどんな感情の名前でも表せないし、言葉にしてしまえばその情緒の一つ一つが嘘に変わり果てていくような気がする。言葉って不完全だから仕方がない。そのジレンマと常に戦わなければならない物書きは大変だ。敗北がわかっている敵に挑むようなものだ。
それらしく、ポエムっぽく物事を書くことは簡単だ。型と呼吸さえ掴めば誰にだってできる。詩の呼吸、壱の型「改行の理」!って感じに。
だけど、ある情景を見て感じた心の動きを正確に言葉にして、読者に自分と同じ心の動きを感じさせることができる人ははたして少ない。
なぜなら、言葉は不完全だから。
見たことがない風景を見たことがあるように感じさせる。漂わない香りに包まれたような気持ちにさせる。温度のない文字に熱を感じる。
そうさせる詩の仕組みというか、成り立ちは、優れた絵画や音楽ととてもよく似ている。
モネの絵画を見たときに涙腺を熱くさせるような、懐かしく大切な心の底の宝物に触れた感じ。
ドヴォルザークの「ユーモレスク」を聴くと私は、「ユーモレスク」以外では説明しようのない気持ちに包まれる。
優れた詩は、そういうのによく似ている。その詩を読んで与えられた情緒は、その詩でしか説明できない。
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村上春樹の『ノルウェイの森』を読んで、気に入ったシーンがあったので抜粋させてほしい。
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「君が大好きだよ、ミドリ」
「どれくらい好き?」
「春の熊くらい好きだよ」
「春の熊?」と緑がまた顔を上げた。「それ何よ、春の熊って?」
「春の野原を君が一人で歩いているとね、向こうからビロードみたいな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「それくらい君のことが好きだ」
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昨晩恋人と電話し、このシーンが好きなんだと話した。
恋人も「素敵」と言った。
よくわからないのだけど、よくわかる。
説明できない素敵な感じがぷわんと温かく心に広がる。それは詩だ。
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恋人はネイルを塗ったらしい。
それがとてもよく塗れていて、素敵な色なのだと言う。
「どれくらい素敵なの?」私はさっきの村上春樹を意識して訊ねた。恋人は言葉に詰まりながらも、教えてくれた。
「秋の夕暮れ。秋の夜と夕暮れの間の、ほんとうに僅かな時間、そこに一番最初にきらりと光ったひとつの星みたいに、綺麗なの」
それは、ネイルを見ていない私にも、さぞ綺麗なんだろうなと思わせた。
たぶん、世界でいちばん美しいのだろう。間違いない。
そのあと恋人は言った。
「ねえ、私のこと、どれくらい好き?」
私は少し考えて、こう答えた。
「たとえば……君を失ったとしたら、その悲しさは、この地球(ほし)から海が干上がって消えてしまったことのように悲しい。そのくらい君のことが好きだよ」
そう言うと、恋人は満足したみたいで、くすくす笑った。そっかそっか、と言って。よしよし、とも言った。
詩ってこういうことなんじゃないかと、その時に思った。
言葉は不完全なものだけど、たぶん完全なものだったら詩は存在しなくて、そもそも言葉も存在しないのだから、不完全で良かったと思う。
私たち人間みたいに。