近頃は細かい雨が降り続いており、それは誰にも等しく降り注いで肌を冷やし、寂しい気持ちにさせる。
極悪である。
とくに台風の被災地においては復旧作業が急がれる中、ぬかるんだ地面の上では作業も進むもんじゃない。晴れるべきだ。
ただでさえ死にたくなる季節なのに、こんなに寂しい雨が降っていたら逆に生きたくなるではないか。
誰しも嫌な気持ちをこの止まない雨に募らせる中で、「雨やまないね」という一言から会話は始まりやすい。
「まったく嫌な天気が続きますよね。雨、雨、雨」
「秋はどこへ行ってしまったんでしょうねぇ」
「急にさぶくなって」
「風邪ひきますよね」
なんて会話の中でこの雨はプラスの意味を含まない。
そこで私は、この秋に降りしきる静かな雨を「秋雨」と呼ぶようにした。
「ああ、秋雨ですなぁ」
そう言うと、会話をしていた人たちは、すこし息をついて、「秋雨なんですねぇ」と遠い目をして答えてくれる。
そう。
この雨は紛れもなく秋雨なのだ。
秋雨という言葉は春雨と同じくらい知られているのに、使わずに文章の中だけにとどまっているもったいない言葉のひとつである。
「秋雨」の響きの中には、季節の持つ寂しさや冷たさや、山の紅葉の濡れた色や、時間の長さを含んでいる。素敵な言葉だと思わないかね。
こういう詩情を仄めかす言葉が季語と呼ばれているのかもしれない。
さまざまな雨の会話の中で、私はこの「秋雨ですなぁ」をしみじみと言ってきた。
会社で昼休憩中に言ったら、皆さんは「そうだなぁ」という顔をして茶を啜ったし、大学時代の仲間との飲み会で言っても「そうだなぁ」といった顔をして酒を啜っていた(酒の場合、「啜る」ではなく「あおる」が正しい)。
先日髪を切ったときに、美容師(注)にも言ったら、「ほんとですね。なんだか素敵ですね」と彼は言った。
(注:この美容師は吉沢亮に似ている。吉沢亮を拡大解釈して縮小コピーしたらこの美容師のようになるだろう。そう書くと語弊が生まれそうだが、イケメンであることには違いない。だから気に入っている。)
この憂鬱な雨も「秋雨」という言葉を得た瞬間に、なにか情緒のある趣深い、愛すべき雨へと変貌するのだ。
ただし、これは一般的な詩情があって趣を捉えることのできる人間に限られた話だが。
夕食の時に家族と雨の話になって、私は「秋雨ですなぁ」と呟いた。
すると妹子が睨んできた。
「兄者、なにそのキモい喋り方」
「キモくなどないよ」
「そういう喋り方をする人は、私の大学ではとても嫌われているし、馬鹿にされてる」
「可哀相に、一体誰なんだい」
「教授に決まってるじゃん」