金曜日、早番で17時前に会社を出た私は、近所の中華屋へ行った。
その中華屋はとても古く、私の祖母が若かったころから変わらずそこでチャーハンやらラーメンや餃子を商っている。
昭和の情景を色濃く残す店内は長年の経年劣化でどこもかしこも古く色褪せているが、決して嫌な古ぼけた色合いではなく、どの椅子もテーブルもランプも、長年大切に使われてきた愛着を感じられる美しい齢の取り方をしていて、物を大切に扱うことや古くても綺麗に保とうとする清潔さは美徳であるということを思い知らされる。
だからその店では、スマホはなにか不釣り合いな代物に感じられる。
ついiPhoneをいじってしまうけど、そうしているとなにか間違いを犯している気分になってくる。
たった3~4年で交換を要する最先端技術の端末がこのレトロな店内では、たとえば静謐な風景画に子どもがうんちのいたずら描きをしたかのように台無しの雰囲気にさせるのだ。この喩(たと)えもよっぽど台無しである。
私は運ばれてきた瓶ビールを小さなコップに注ぎながら、ぼんやりと店内を見回した。
金曜夜の中華屋に若者は、店員以外に私しかいない。
あとはこの店と共に年齢を重ねてきた年寄りばかりだ。
老夫婦、友だち同士、男性客はほとんど一人で五目焼きそばを食んでいる。その傍らには大抵瓶ビールが置かれ、間違いのない至福を添えている。
前から不思議に思っていたのだが、ここの店員は若い娘が多い。
しかもギャル風のメイクをしており、口が悪く、ピアスなんかもしていて、きゃらきゃらと転がるように笑い、よく働き、可愛い子ばかりだ。
なぜだろう。
およそ店内のレトロさには不釣り合いなギャルたちだが、大衆中華食堂の煩雑さにはとてもマッチしていて、時代錯誤な光景にも見えるし、割烹着を着ている姿は自然体にも見える。ともすれば一見、本当に夜の蝶のような女の子たちなのだから一種不思議の光景である。
その中に混じって、もちろんあるべき人であるオバサン店員はひときわ大きな声で注文を復唱する。
オバサンは日本人なのか韓国人なのか中国人なのかはたまたタイ人なのかもわからぬ口調と見た目であり、ときどき薄暗いところにいるとオジサンかもしれないと見る目に自信を失う。これもまた不思議だ。人は老いると容姿が性を超越しようとする場合がある。人間は収束する生き物なのかもしれない。最後は等しく土になる。
チャーハンと塩辛い中華スープとザーサイが着机(ちゃっき)したので、ザーサイを残してチャーハンを食べた。
チャーシューが甘く焼いてありそこにニンニクの香ばしいにおいがかぶさって食欲を刺激する。スープはあるべきところにある具合で調和している。完璧である。
ザーサイを残しているのは、あとでビールのつまみにするためだ。
金曜の夜はこうして始まった。
今週もよく頑張った。一度も泣かなかったし、逃げなかった。
えらい。
ザーサイが辛く、ビールが美味い。