蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

読書をするな

 書をするとこんなに良いことがあるんですよ!という文句をたまに聞くけど、あれはすべて嘘だ。

 たとえば情操教育に役立つだとか、読解力が身についてあらゆる勉強に有効な力になるだとか、教養が身につくだとか、文章力が向上するだとか。

 こう書いてみて、まぁすべてが嘘であるわけではないと思ったが、そんなに身につくものでもないよなぁともやはり思った。

 

 こういう、「本を読めば良いことがある!」と言う輩は出版社の回し者に違いない。出版社は本を売るのが仕事であり、本が売れないと困るから、かくのごときPRをする必要がある。

 結局、商売なのです。

 これが、資本主義なのです。

 

 私は「本を読むと良いことがあるよ!」という文句に若干の嫌悪感を抱いている。

 読書家だとのたまう輩が特にそういうことを言っていると、こいつは正気かと思うし、そいつは小説が好きなわけじゃないんだなと思う。

 

 「本」はノンフィクションとフィクションの二種類があり、新書や専門書など知識を蓄えることを目的とする本なら、まぁ「良いことはある」だろう。なぜなら、それは知識を売っていて、私たちは知識を読んでいるのだ。

 だけど、小説などフィクションを読むとき、私たちは知識を読んでいるのではない。作者の頭の中を読んでいるのだ。それは他人の夢を覗いているようなものだ。知識の種類にもよるが、知識を得ようと思って小説を読む人はそう多くいないだろう。

 猫の生態を知りたくて『吾輩は猫である』を読む人はいない。

 

 だから、「本を読むと良いことがある!」論者の薦める本が新書など知識本だったら納得がいく。ああこの人は文学の人ではないのだ、と。本を道具として使う人なら、本を道具として人に薦めるだろう。だから納得できる。

 だけど、そう言って小説を薦めていたら、こいつは魂を売った落武者なのだなと烙印を捺(お)すことにしている。「裏切者」と書かれた烙印で、それをおでこにジュッと捺す。

 

 私は「楽しむ」以外の目的で小説を読んでほしくないのだ。

 小説は娯楽で、物語を楽しむために存在する芸術作品である。

 それをば、「読解力を身につけるために一生懸命本を読みましょう」と薦めるのは、作品や作者に対して失礼だ。読書は「読書」の目的のために存在しているのに、いつの間にか道具になってしまっているではないか。

 新書はもともと道具だからよいけど、小説は違う。小説は小説のためにあるものだ。

 

 学生時代、読みたくもないのにシェイクスピアを読まされたときの苦痛を思い出す。私はレポートを仕上げるために、生米を噛むような気持で読了したけど、そうつらかったのは、シェイクスピアがレポート課題のための道具になってしまっていたからだ。

 先生に言われず、自主的にシェイクスピアを読もうと思って読んでいたらきっと楽しかったはずである。

 

 これと同じことで、なにか他の目的のためにする読書ほど苦痛なものもない。退屈だし眠くなるし頭に入ってこないし目は疲れるし。

 だから、小説を読むのは、自主的でなければならない。あるいは「これおもしろいよ」と薦められて娯楽のために読むにかぎる。

 

 小説ばかり読む人が「本を読むといいことがあるぞ」と娯楽以外の価値を人に薦めていたら、そいつは偽物だ。本当の読書家ではない。

 小説を「目的」から「道具」にしてしまう裏切者で、魂を売った落武者だ。

 許すな。

 迫害しろ。

 これが、ファシストなのです。