言葉にしない方がよいことなんていくらでも思いつく。
たとえばぺらぺら喋る母親に「よく喋るね。九官鳥みたいだ」なんて言わない方がよいし、恋人に「なんか太ったね」なんて言おうものなら刺殺は免れない。
先輩に「ぜんぜん使えない人ですね。死んだらどうですか」と言うべきではないし、往来のテキトーな人に「目障りだ」なんて言ってはいけない。
だれかを傷つける言葉を言ってはいけない。
それが傷つける目的であるならば猶更、言葉にすべきではないし、無意識に傷つけるつもりがなくても傷つけてしまうことがあるので、センシティブなことは言葉にしないのが吉だ。たとえばそれは宗教や政治のことだったりもする。
会話って難しい。人知れず誰かを傷つけているかもしれない。自分が傷つくかもしれない。だからもう、口唇を縫い合わせて目を閉じ、部屋の隅でうずくまっているしかないのだろう。(枕草子第七二段)
ところで、さいきん人々はいろいろなことを言葉にしすぎなんじゃないか、と私は思う。
Twitterを見ていてよく思う。
私も言葉にしてしまう人なのだけど、プライベートの大切なことや個人情報をはじめとして、鬱憤やヘイトを言葉にしてしまう人は多いようだ。ついつい、誰も見ていないかのような錯覚に陥ってしまうし、マイナスな感情に反応があるとなにか痛みを肯定されたかのような麻酔的な安らぎすら覚える。
だけど、本来それはよくないことだ(と言いつつ私もマイナス発言をよくするのだけど)。
個人情報は呟くべきではないし、マイナスな発言は自分はそういうつもりなくても誰かを傷つけているかもしれない。自戒したい。
また、他人の呟きや作品に対して「糞ですね。死んだらどうですか?」などと揶揄する輩については往来を行く人に突然「死ね」と囁くようなもので、そう考えると常軌を逸しているとしか思えない。よっぽど頭がおかしいか、暇人なのだろう。(現代ジャーナル第6号)
言葉にしない方が良いことは、こういったマイナスな事柄だけに留まらない。
私は、親密な人へ向けた親密な愛の言葉などは、その人だけに伝えるものだと思う。
たとえばプロポーズの言葉は愛する人へ向けた一世一代の言葉(便宜上そういうものとする)であるのに、それをやたらと他人に教えまわるのは、なんだか愛する人の気持ちを冒涜しているようでもあるし、言葉の価値を低くしているように感じてしまう。
寝る前にそっと囁いた「愛してるよ」だったり、小さい子どもが親に向けて書いた手紙の言葉だったり、そういった「誰かの物になる」言葉はやたら触れ回っていいものじゃないと思う。
夜、恋人がランプの灯りの中で小さな音で奏でてくれたギターと鼻歌を録音してミキシングし、SoundCloudで世界中に共有したらそれは無粋だろう。そういうことと同じだ。
いろいろな意味で言葉を大切にした方がいいし、SNSとインターネットの普及で文字が氾濫している現代だからこそ、言葉を安物にせず、もう少し敏感になるべきではなかろうか(毎日新聞)
↓
まったく余談だが、段落の最後に(毎日新聞)や(枕草子)と付けるだけで、いかにもそれっぽくなるので、論に信憑性を持たせたいときはやってみるといいだろう。
それについて言及されたら「いや、絵文字的なノリでつけただけです。意味なんてありません」と言い通せば大丈夫だ。
また応用として、句読点の位置に「/」を入れると天声人語ぽくなる。
以上。