「 目的」と「手段」がいつのまにか入れ替わってて、アレレ?おっかしぃ〜ずぉ〜お?となってしまうことはよくある。
たとえば、金銭がそれだ。
お金は大切だ。いちばん大事かもしれない。結局金なんだなぁとなることも多々。金さえあればどうとでもなることが多い。
だけど我々は履き違えてはいけない。金は大事だけど、金はあくまで「手段」である。「目的」じゃない。
生きるためにはお金が必要だ。
欲しいものを買うためにはお金が必要だ。
お金がないと「なに」もできない、と言えるように、お金には「目的語」がなければならない。こういうことから、お金は「手段」であると断言できる。
しかし私たちはお金を「目的」と勘違いしがちである。
その理由も明確で、働くのはお金のためだからだ。
労働もお金を得るための「手段」であり、得たものもまたお金という「手段」なのだが、この二重構造のせいでお金を「目的」だと勘違いしやすい。
労働という「手段」から見てお金は「目的」と「手段」双方の性質を併せ持っているが、「目的」であるお金を手に入れて労働から離れたとしても、お金を「目的」だと勘違いし続けてしまう。切り替えができない。
当然だと思う。私もそうだ。
お金を手に入れるための「手段」である労働がキツイというのも「目的」との入れ替わりにひとつ起因しているだろう。
だけど、誰がなんと言おうとお金は「手段」であることを忘れてはならない。生きていくための道具のひとつなのだ。
私の仕事では無駄なところが多い。
「目的」に対して工数がかかりすぎることもあるし、「目的」のための「手段」が面倒臭すぎるのだ。
それが不定期の特殊な仕事(たとえば企画や開発)であればいいけど、こちとら定期作業であり、月に一回、あるいは毎週大変な目にあわねばならない。
そうなってくると複雑化した「手段」を完成させることが「目的」になってしまい、結果として「目的」がなぁなぁになっても「手段」が優先されているという本末転倒である。
これではいかんぞ。
その作業が毎月あまりにもキツイため、ついに業務の見直しが図られた。新人である私が毎月のように苦心して火車になっているのを上司が見かねたのだ。
世の中にはこうした「手段」の「目的化」が多く見られる。本質を見失った人間は、客観的に見ると実に愚かだ。イワンの馬鹿でもこうはならないだろう。
なにか迷ったり、自分の行動に確信が持てなくなったときに、私は「手段」と「目的」を一度整理することにしている。
そうすると本当にやるべきことや本質を思い出して、また少し動けるようになる。