蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「おさかな」の良さ

  魚はいい。

 「お魚」と口に出すと、しみじみ「良いなぁ」と思う。

 「魚」よりも「お魚」がいい。「おさかな」とひらがなにするとより良い。

 なんだか可愛いじゃないか、「おさかな」。

 「お」を付けるだけでちょっと丁寧だし魚に愛着を持ってる感が出るし、単に食材としてよりも魚そのものに対する個人的の尊重を感じられる(気がする)。同じように肉についても「お肉」としたほうがなんだかちょっとイイ感じになる。

 それだけの理由で「おさかな」と私は言うようにしてる。

 全然説明が足りないのだけどこれは感覚的なことで説明のしようがない。私は「おさかな」が好き、というだけだ。

 

 これに気付いたのは社会人になってからだった。

 会社の食堂の定食は肉料理とお魚料理と選べて、給仕のおばちゃんに「魚」と伝えると「おさかなですね」と確認されたことがきっかけだった。

 「おさかな、って響き、なんだかいいな」

 以来、私は食堂で「おさかな」と言うようにした。

 周りの人もそう思っているのだろうか、注文する人はみんな「おさかな」と言っている。その光景はなんだか可愛らしい。

 

 ところで食堂の定食はお魚のほうが人気である。

 うちの職場は同じビルに入っている会社と昼食の時間をずらしてやや遅めなので、食堂に行くとたいていお魚定食は終わっている。

 お魚は人気者だなぁ、と社会人になった当初は安直に思っていたのだが、どうやら違うことに最近気づいた。

 肉料理がほとんどの場合美味しくないから、皆お魚に逃げるのだ。

 どうして肉が不味くなるのかよくわからないが、なにせ旨味がなく、やや冷たく、かたくて、かかっているソースが可もなく不可もなくなんの味わいもないからかもしれない。

 一方でお魚は不味くなることがない。焼けばいいのだ。焼けばいいだけだから、干物定食のときはアタリである。すぐになくなってしまう。

 ただ、お魚定食にもハズレの日があって、揚げ魚はピカイチで美味しくない。

 脂ぎっていて、身が縮んでいて、硬くて、冷たい。

 食べていると悲しくなってくる。どうして700円も払ってこんなに悲しい思いをしなければならないのだろう?毎日会社に来ているだけでへとへとに絶望しなければいけないのに、どうして楽しみの食事でコテンパンにやられなきゃいけないのだろう?裏切りだ。違法だ。憲法違反だ。そもそも700円て高すぎる。700円もするならもう少しマシなものを作れ。

 不味いのに量が多い地獄。

 それに先輩たちは食べるのが早いから、味わってる暇なんてない。

 書いてたら嫌になってきた。

 なにが「おさかな」だ。

 泣きたくなってきた。いちじるしく人権を貶められているような気がしてきた。美味しいものを食べる権利は誰にだってあるはずだ。

 

 「おさかな」の良さを書こうと思っていたらいつの間にか食堂の愚痴になってしまったけど、ともかく「おさかな」は良いもんなんである。

 おさかなになって水槽をグルグル回っていたい。溺れないって素敵なことだ。